関東連絡会第12回総会
      

         第12回総会の意義と課題

 2016年参議院選挙で「3分の1」の壁が崩され、参議院ではじめて改憲勢力が改憲発議に必要な3分の2議席を超えました。昨年(2017年)5月3日には、安倍首相が突然、「2020年を、新しい憲法が施行される年」と期限まで明示し、「9条1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込む」という自衛隊明記改憲案を打ち出しました。その後、7月東京都議運では小池・都民ファースト旋風が起こり自民党は歴史的な大敗をしました。しかし、秋の臨時国会冒頭解散・総選挙(2017年10月22日)では野党案1党だった民進党が小池劇場で自壊し、「市民+野党」共闘ま崩れ、「国難」打破をかかげた安倍自民党が選挙前議席(284議席)を確保し、公明党と合わせて3分の2議席を上回り圧勝しました。

 私たちは、前回総会(2017年6月)で、憲法闘争が戦後70年で最大の危機と攻防を迎えているなかで、1850万筆に達した戦争法廃止を求める署名に示された憲法9条が岩盤であることに確信を持ちながら、共謀罪に反対する運動、森友・加計学園疑惑の徹底追及、沖縄・辺野古新基地阻止の運動、脱原発運動などひとつひとつの課題に取り組むなかで安倍政権を追い詰め、改憲を許さない開いを進めてこうと確認してきました。

 昨秋には「安倍9条故意NO!全国市民アクション」が発足し、「3000万人統一署名」運動が提起され、全国各地で取り組まれてきています。

 総裁選で3選を果たした安倍首相は、長期政権をめざして(総裁任期は2021年まで)第4次改造内閣をスタートさせ、自民党の憲法改正推進本部体制は、中山太郎から受け継いできた与野党協調派に替えて、本部長に下村博文元文科相、衆院憲法審査会筆頭幹事に新藤義孝元総務相という改憲強硬路線派の安倍側近を配置し、「改憲シフト」を敷きました。

 安倍首相は、自衛隊観閲式の訓示で改憲を煽り、国会議場で国会議員に向かって改憲を促すなど立憲主義を逸脱し、言語道断の暴言を繰り返し、改憲へ前のめり続けています。

 しかし安倍首相は、森友・加計学園疑惑を抱えたままであり、さらに「在庫一掃」内閣で大臣の相次ぐ不祥事が続発しています。安倍内閣の目玉政策の一つである外国人労働者の受け入れを拡大する入管難民法改正間蔑で党内外から批判が噴出しています。「安倍一強」の求心力に揺らぎと綻びが見えています。いつまでもデマとウソで糊塗し、レトリックで乗り切ることはできません。なにより経済的格差と貧困が深く広がり、人びとの政治不信と生活への不満が高まっています。

 安倍首相は、その任期も限られ、改憲へむけた政治日程もタイトになってくる中で、だいぶ焦ってきています。だから、自らの偏狭な改憲への使命感を繰り返し述べ、リスク覚悟で改憲の野望へいっそう突っ走ろうとしているのかもしれません。

 安倍自民党は、先の通常国会(196国会)から継続審議となっている国民投票法一部改正案(自民・公明・日本維新の会・希望の党が議員立法として提出し、質疑はせずに趣旨説明のみ行われている)をテコに野党を分断して、なんとか憲法審査会を動かし、憲法審査会での改憲議論の促進を狙っています。この臨時国会で自民党の4項目の条文改憲案(自民党の正式案とも言えない「たたき台」)をなんとか憲法審査会に提案したというところまで漕ぎ着けて、来年(2019年)の通常国会での改憲発議に繋げていきたいと目論んでいます。


 改憲発議を阻止して安倍政権を倒すのか、安倍政権を倒して改憲を止めるのか。この秋からから来年にかけて重大な局面が続きます。2019年夏には参議院選挙があります。

 朝鮮半島はいま、戦争状態から脱して平和体制構築へとまさに歴史的な転換が進んでいます。逆流は起こるでしょうが、この流れはもはや止めることはできません。安倍政権と与党が総力で介入した沖縄県知事選挙は「オール沖縄」の玉城デニーさんが大勝利しました。辺野古新基地建設を阻止する沖縄の闘いは続きます。
 キャンドル革命を実現した韓国民衆・市民の運動、沖縄の人びとの不屈の南いに学びながら、安倍9条改憲を阻止する運動と世論の形成に全力をあげていきましょう。

 議案提案 
 

  
   講演資料
 北関東における典型的地方都市

 『宇都宮市』の空襲にみる地方都市空襲の実態とその背景

                                 2018/11/24 
 大野幹夫 


  関東平野を北西から南東にかけて横切り太平洋に注ぐ利根川は「坂東太郎」の異名を持ち日本最大の流域面積を持つ大河である。一般的には、この河を境にその南側を占める地区、埼玉・東京・千葉・神奈川を南関東、北側を占める茨城・栃木・群馬の3県が広がる地域を北関東と呼んでいる。
 北関東地方には戦国の世以来、大藩が形成されることなく肥沃な大地と山水の豊かな自然のめぐみのなかで、個性豊かな魅力ある数多くの中小都市をそだてあげてきた。太平洋戦争戦時期には広大な平野を舞台に、宇都宮師団や霞ヶ浦海軍航空隊など数多くの軍事施設、また群馬県太田の中島飛行機など軍需工場が北関東一帯の諸都市に集積し、軍需物資供給基地ならびに首都防衛の機能としての役割を果たしていた。そのような北関東の風土的典型を示す、太平洋戦争終結期における中小都市の一つとして宇都宮市の空襲を考察してみる。


平均的地方都市「宇都宮」の概要
 宇都宮市は栃木県のほぼ中央、東京から約100キロ北に位置した栃木県の県庁所在地、現在人口約52万人の中核市である。古来奥州地方への陸路の分岐点でもあり関門でもあった宇都宮は、街の中心に位置する下野の国一の宮、二荒山神社を中心に栄えた門前町として、また城下町としての機能の中で栄えてきた。戊辰戦役で街は全焼し一時的に衰退するが、県庁の設置、東北線の開通、第14師団司令部の設置等により急速な展開をみせ、商工業都市としてまた北関東を統帥する軍都として北関東を代表する平均的地方都市としての再興を果たす。

 現在においては人口52万の中核市であるが、太平洋戦争末期(昭和20年)の空襲当時の人口は約8万5,000、ほかに軍隊や中島飛行機製作所や各和製作所、関東工業など軍需工場に従事する人口を含めると10万人強であり、昼間人口は12.3万と見られ、関東地方における平均的地方都市であった。


 昭和20年 宇都宮空襲前後の人口動態は次表の通りである。

  (「戦災当時宇都宮市事務概況」による。昭和21年5月10日現在)

人 口

世帯数

戸 数

現在(21年5月10日)

87,636

18,807

15,822

戦  災  前

103,473

21,978

18,029

戦 災 直 後

75,350

17,399

9,407

罹     災

47,976

10,603

8,622





















 当時の宇都宮の市域は、18平方キロメートル弱であり、小規模な市域だった。

昭和の20年戦災時の宇都宮市の市域

18.4平方キロメートル

昭和29年(昭和の大合併)の市域

312.16平方キロメートル

平成19年4月(平成の合併)の市域

416.84平方キロメートル

● 宇都宮空襲の犠牲者の数は平成19年合併以前の市域での数字

 
   宇都宮空襲の実態
  「宇都宮市」は、1945年(昭和20年)12回のアメリカ軍機による空襲を受け、物身両面においての甚大な被害を蒙った。特に7月12日の夜半から13日未明にかけてのB29爆撃機による大空襲においては、市街地の約65パーセントを焼失し、一夜にして620名以上の市民が犠牲となった。当日の空襲の被害は、宇都宮ばかりでなく,当時は宇都宮市の近郊町村だった雀宮町・城山村・横川村・瑞穂野村・清原村・平石村・平出村・姿川村・豊郷村地区(現在はすべて宇都宮市)に及び、さらに鹿沼町・真岡町(2町とも現在は市)など近隣の都市など被害は広域に及んだ。

 この空襲の実状を、アメリカ軍のデーターに基づいて示すと次の通りである。(米山和也氏「作戦任務報告書から見た宇都宮の空襲」より引用)

① 作戦参加機数:B29ボーイング爆撃機133機
② 発進基地:マリアナ群島 テニアン東西基地
③ 1番機の焼夷弾投下時刻:1945年7月12 日23時19分(※日本側発表23時40分)
④ 爆撃高度:最低4,054メートル、最高4,050メートル
 投下した焼夷弾トン数及び個数:M47.100ポンド焼夷弾362・1t10,500個 E46・500
  ポンド集束焼夷弾440.8t 22,044個(M69焼夷弾38発内蔵のためM69焼夷弾総数は
   83,752個となる)合計 96,456個 
⑥ 最終機の爆撃終了時刻:7月13日1時39分 空襲実施時間 2時間20分

◆ 7月12日の大空襲による被害状況
① 被害面積:宇都宮 3,205平方キロ(当時の市街地面積の65%)
② 全焼住宅施設:宇都宮9,137戸 鹿沼267戸 真岡50戸
③ 死傷者:死者=宇都宮620名(以上2001年宇都宮市発表の数) 鹿沼7(9)名(鹿沼市市発表の数) 真岡1名 負傷者=宇都宮約1,128名 鹿沼約30名
◆ 7月12日大空襲以外の死者を出し米・英軍による主な宇都宮の空襲
★ 7月10日5名以上(宇都宮飛行場・宇都宮南飛行場爆撃・飛行場界隈民家)
★ 7月28日、30 日2日間で42名以上(艦載機による市街地攻撃=7月28日においては宇都宮を襲撃した艦載機の1派3機が東北線上り列車を追い、旧・国鉄小金井駅(現・栃木県下野市小金井)において、列車で移送されてきた戦死者の遺骨を乗せた列車とそれを出迎える駅前の群衆を急襲、31名の犠牲者を出す大惨事となった。
★ 8月13日8名以上(艦載機による宇都宮飛行場及び市街地爆撃)
★ 他に死傷者を出さなかった市内の軍事施設、軍需工場の爆撃が4回あった。


宇都宮大空襲の目的                 (※下線は大野による)

 7月12日の宇都宮市の空襲が、市内に点在する軍施設、軍需工場、国鉄など交通機関その他の戦略的機関というよりはむしろ人口密集地帯であるいわゆる下町地域、中心商店街を取り巻く住宅地域に焦点を当てての空爆であったという点で、一般市民の戦意喪失を目的とした典型的な爆撃といえる。このことは太平洋戦争後期に行われたわが国の都市空襲、特に同年7月以降に加速が進む北関東諸都市を含む全国中小都市の空襲に共通する。 
 空爆の被害は住宅の密集する市域(昭和20年当時)に集中し、アメリカ軍による攻撃の規模から考えると都市の機能不全、市民の生活基盤そのものの破壊を目的としたものである。このことは次の宇都宮空襲に関してのアメリカ軍資料において明瞭である。

◆(第20爆撃機集団司令部 軍事郵便234 1、作戦任務の確認C、計画から作戦までの詳細
  (1)爆撃計画)
1、作戦任務第263号について
第58航空団は2個航空群にM-47少尉爆弾を別の2個航空群にはM-69焼夷弾内臓の500ポンドE-46集束焼夷弾を搭載する。このように指示し爆弾を搭載させたのは、供給量の限られた焼夷弾を効果的に活用するためである。爆弾精度予想によると部隊は通常努力で十分な爆弾量を目標に投下できる。M-47焼夷弾を目標に最初に投下するのは、防火帯を破壊し、都市全体に延焼を発生させるためである。このようにして攻撃後半で使用するM-69集束焼夷弾1発あたりの被害規模を拡大することができる 目標地域は、家屋がかなり密集し着火しやすい。そこで1平方マイル当たり200トンの密度で爆弾を投下すれば、居住建造物と工業用建造物とが同居する地域に期待通りの被害を与えられる見通しである。集束爆弾の内部にはM-69を選定した。目標がかなり着火しやすいため直後に大規模な火災が予想され焼夷弾の貫通力はそれほど必要ではないからである。・・・、
(中略)・・・集束焼夷弾については目標上空5,000フィートで開くよう設定した。弾頭瞬発信管を使用すると、爆弾は屋根からわずか数フィート下で破裂する。そのため高熱のナパーム弾が飛散し、建物や建物内部の燃焼性を最大限まで高めることが可能である。・・・

(中略)・・・集束焼夷弾については目標上空5,000フィートで開くよう設定した。弾頭瞬発信管を使用すると、爆弾は屋根からわずか数フィート下で破裂する。そのため高熱のナパーム弾が飛散し、建物や建物内部の燃焼性を最大限まで高めることが可能である。・・・
 この資料を読み取る限りにおいて、これは単に宇都宮のみの問題ではなく、日本の都市空襲に関するアメリカの空爆の思想と把握しても過言ではない。 
また、上記アメリカ軍資料に基づくものとして、宇都宮市の住宅密集地の殲滅は不可避であったものと考えらる。ただアメリカ軍は宇都宮市空襲の中心目標を、市街地ほぼ中心に位置する宇都宮市立中央小学校に設定している(アメリカ軍作戦要務令による)


この地区の周辺には栃木県県庁、宇都宮市役所をはじめ公共施設、マスコミ機関、憲兵隊本部、市内最大の繁華商店街(通称「バンバ」)などが集積しているが、当日は悪天候のため中心目標が東南方に600~800メートルの誤差を招じたと考えられている。それは、市東南方の郊外に展開する田園地帯のかなり広範囲に、おびただしい焼夷弾が投下されていることでも理解できる。
 そのため、宇都宮市は全滅をまぬかれ、全市街地の65パーセントの被爆範囲に止まったと考えられる。もしも計画が正しく実行され、中心目標地点が正確なものであったとしたら、当然住宅密集地を含む市街地の全域に破滅的破壊が及んだことは想像に難くない。


宇都宮市をはじめ地方中小都市の日本本土空爆上での位置づけ 

宇都宮市をはじめ北関東諸都市を含む、わが国の中小地方都市の空襲は避けられなかったのだろうか、わが国の空襲史の中でどう位置づけされるのだろうか、わが国の都市空襲の系譜をその態様に基づき分類すると別表「米軍機による日本本土空襲」のように6区分に時間的区分に分類できる。
(別表 「米軍機による日本本土空襲」参照)

◆ 第一期=九州地方の戦略都市を中心とする精密爆撃に時期=(1942/4/18~1941/11/24)
  昭和17年4月に開始されたアメリカ軍の日本本土空襲は当初、発進基地を中国内陸の成都(チョントウ)に求めていた。燃料、及び当時の飛行性能から、必要量の爆弾を搭載しての遠距離攻撃が不可能であり、空襲の対象は、九州地区の軍事基地ならびに軍需工業都市の精密爆撃に限定していた。東京・大阪。名古屋への侵攻は、単なる威喝侵攻であり、大きな被害が生じる規模のものではなかった。この時期を第1期とした。

◆ 第2期=関東以南の本土全域に対する戦略都市精密爆撃の時期=(1944/2/4~1945/1/下)
昭和18年2月ガダルカナル島玉砕 1977月年サイパン島玉砕の続き南太平洋の島々がアメリカ軍の手に落ちそれらの地区の制海権・制空権がアメリカ軍に渡るとマリアナ諸島の基地を発進地とする本土空襲が始まり、アメリカ軍機の飛行距離が延長され東北地方以南の大都市を中心に、また大村、土浦などの軍事施設集積都市、神戸、浜松、大田など軍需工業集積都市が攻撃の対象となった。この期間を第2期とした。

◆第3期 =大都市中心の無差別都市空襲の開始= (1945/1下~5/下)
 昭和20年2月4日ヤルタ会談のさなか英・米軍によるドレスデン大空襲が決行され、それまで自粛されていた都市空襲が再開されることになった。結果が東京大空襲である。 この期までの空襲で、日本の軍需工場は壊滅的打撃を蒙ることになり、その後の軍備力維持に大きな支障を来たすことになった。この期間を第3期とした。

◆第4期=軍事・軍需都市及び地方中心都市無差別空襲への波及=(1945/下~7/10)
 4月末期において、ドイツはすでに末期的状況にありヨーロッパの戦争は終結の方向に向かっていた、連合国の首脳らは連合して日本への対応の協議を進め、沖縄戦の終結を見て5月8日、日本に対し無条件降伏を勧告する。その後5月上旬から5月下旬まで本土都市空襲は軍需施設を除き中断する。しかし日本側は 勧告を無視、5月27日横浜・川崎の白昼大爆撃を皮切りに都市空襲が再開される。また6月17~18日の鹿児島・大牟田・四日市・浜松の空襲を皮切りに人口10万以上の地方都市空襲が開始される。この期間を第4期とした。

◆ 第5期=10万以下の地方中小都市への無差別都市空襲の波及=(1945/7/12~8/末)
無条件降伏勧告無視の上、頑強な抵抗を続ける日本に対し、大都市はもとよりさらに空爆の範囲を人口10万以下の地方の中小都市に拡大する。宇都宮・一の宮・大牟田空襲を第一波としてこれより8月中旬にかけて多くの北関東諸都市が空襲を体験することになる。この期間を第5期とした。


◆ 第6期=原爆投下とポツダム宣言受諾=(1945/8/1~8/15)
7月26日ポツダム宣言発表、日本宣言を無視、それに対しアメリカは『原爆投下』計画を実行に移す。8月14日に日本がポツダム宣言を受諾するまで。広島・長崎の原爆被災、また地方都市の空襲は継続された。この期間を第6期とした。

回避可能だった日本の地方中小都市空襲
 アメリカ軍の原爆の予定目標都市は京都・広島・小倉・新潟・横浜であり、宣言の受諾が延期された場合の日本の悲惨な状況は想像を絶するものがある。また、都市空襲の目標としては180都市が列挙されている(第20航空軍司令部A-3部軍事郵便局長気付け、代理参謀宛書簡)。北関東三県のアメリカ軍の空爆目標都市は、水戸・日立(茨城県)宇都宮・足利・栃木(栃木県)、前橋・桐生・高崎・伊勢崎(群馬県)(うち足利・栃木は空襲回避)である。全国的には180の目標都市のうち127の都市が空爆をまぬかれている(太田市などの軍需工場また軍事施設を目的とした空爆は除く)。ただし、実際は目標都市対象外での被爆も数多くあり、全国的には120~130の都市が被爆したとされている。

太平洋戦争期における。わが国の空爆による非戦闘員の犠牲者は80万人に及ぶ。負傷者を含めると300万を超えると思われる。(この数字には沖縄戦における犠牲者は含まれていない)市民の財産の損失もまた膨大なものがある。このような膨大な市民の人的・物質的犠牲は、市民にとって必然的なものだったのだろうか?
日本が先端を切った空爆の結果としてある程度の犠牲は伴うものとしても、開戦後において空襲の惨禍の拡大を阻止する契機は、少なくとも4度あったはずである。すなわち、

 ①南太平洋および東南アジア地帯の制海権・制空権の喪失による戦線補給路の断絶の時期(第2期) 
 ②軍需産業の壊滅的打撃の時期(第3期)
 ③連合国による「無条件降伏勧告」(第4期) 
 ④「ポツダム宣言発表」(第6期)である。

これらの対応如何で原爆犠牲者を含めおよそ50万以上の一般市民の犠牲は未然に阻止され救済されたものと考えられからである。停戦・終戦に関しての勇気ある決断を持ち得なかった戦争の系譜はまさに暴挙でありその経過として悲劇である。

語り継ぐもの
わが国は、太平洋戦争期において空爆を蒙り、多くの都市が空襲により被爆し80万にも及ぶ尊い人命を失っている。空襲による都市の壊滅による市民の私的財産の損失はもとより、文化遺産の損失も計り知れないものがある。広島・長崎の原爆投下を含め、わが国の都市への空爆に対して国際法違反(ハーグ陸戦協定違反)と指摘する動きもある。またアメリカの無差別都市空爆を国際法違反とし日本の侵略行為を正当化しようとする趨勢もある。またそのように記載された歴史教科書も出版されている。

ハーグ陸戦条約とは1899年7月29日の第1回ハーグ平和会議において締結された『陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約』および『陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則』の両者を含めたもののことであり1904年10月18日の第2回ハーグ平和会議においてその改定がなされている。同条約を日本は1911年に批准している。 

 同条約は、ドイツ及びイタリアによるゲルニカ爆撃、日本の重慶爆撃、南京暴虐、イギリス及びアメリカ軍によるドレスデン空爆、等における戦時下の無差別かつ大量殺戮行為としての罪状をしめす戦時国際法の規範として国際法上きわめて重要な位置づけ及び意味づけを持つものである。 

 しかし、飛行機による戦略的都市空襲においての世界最初の国際条約違反を行ったのは、第1次世界大戦下の1914年(大正3年)日本軍の青島(チンタオ・当時中国におけるドイツの租借地)の空爆においてである。(1914年8月23日、青島攻略戦に水上機母艦『若宮』に『モーリス・ファルマン(モ式)』飛行機及び『ルンプラータウベ』飛行機を搭載し参戦した)この空爆が航空機による戦略的空爆の最初だとされている。(これ以前に飛行船による手投げ爆弾投下はあった)これを契機として世界の戦史の上での戦略的都市空爆の歴史が展開していくことになった。また、日中戦争期において日本軍は重慶の猛爆をはじめ、20都市近くの中国の都市を空爆し、多数の死傷者を出したという事実がある。このことは「空襲」の惨禍に関し被害的側面のみならず加害的側面もあるということを歴史的事実として、われわれのすべてが銘記しなければならないことを教示する。

 
  とちぎの空襲・戦災を語り継ぐ会
                代表 大野幹夫

URL : http//tsensay.jimdo.com

                                                  『とちぎ炎の記憶』
記念講演する大野さん
記念講演を聴衆する会員
資料A

「米軍機による日本本土空襲

区分


空襲を受けた主な都市

複数の空襲のある場合は規模の顕著な空襲のみ

参 考 事 項

空襲の性格
 
第1期

昭和17年

4月18日

昭和19年

 


大都市圏の威喝的行動としての空襲が主体の時期

●昭和17年4月18日 日本本土発空襲ドウリットル空襲

● 昭和19年6月15日B29による中国内陸、成都(チョントウ)を拠点基地としての本土発空襲(八幡爆撃) 第20爆撃機集団による空襲、飛行距離がのびず九州地方の軍事施設の精密爆撃が主体

昭和19年 6/15 北九州市八幡製鉄所(中国大陸からの B29初空襲) 10/25大村市海軍工廠 11/15大牟田市工業地帯 11/21熊本市  疎開船対馬丸沈没 11/28 佐世保10/10那覇市 十・十空襲 11/24 武蔵野市中島飛行機製作所(B29爆撃機による初本土都市空襲B29 900機)

※18年2/1日ガダルカナル島全滅
※18年7/2~78/3日米英軍によるハンブルグ大空襲(絨毯爆撃の完成)、-英軍による夜間空襲の試み
11/25マキン、タラワ両島の守備隊全滅
199年1/9緊急学徒勤労動員方策要綱を閣議決定 1/9防空法施行令実施 1/19女子挺身隊結成(14~25歳までの未婚女性を軍需工場などに動員 1/26東京名古屋に初の疎開命令(指定区域内の建築物の強制取壊
2/25文部省、食糧増産に学徒500万人の動員を決定3/1決戦非常措置要綱実施 3/8インパール作戦を開始 5/16文部省、学校工場化実施要綱を発表  /30学童疎開促進要綱を閣議決定 6/9マリアナ・パラオ沖海戦
7/4日本軍、インパール作戦を中止。7/7サイパン島の日本軍全滅 7/18東條英機内閣総辞職。 22小磯国昭内閣成立 8/2テニアン島の日本軍玉砕   8/11グアム島の日本軍玉砕 9/15 ペリリュー島玉砕 10/17アンガウル島玉砕 10/10米軍、沖縄 台湾を空襲(十・十空襲)10/20米軍、フィリピン・レイテ島に上陸 10/23レイテ沖海戦(この戦いで日本の空母戦力は壊滅)10月24日 戦艦武蔵沈没(シブヤン海)制海権・制空権の喪失
10月25日 神風特別攻撃隊(13機)レイテで初出撃。


第2期

昭和19年

11月25日~
昭和20年

2月下旬

大都市及び重工業都市(特に軍需鉱業)を標的としの戦略爆撃が主体の時期
● アメリカ軍 サイパン・テニアン・グアム基地からの空襲始める。
11/30 沼津市 12/13・18/名古屋  20年1/3名古屋 1/9 沼津市 1/14宇治山田 1/16京都市東山 1/19神戸市 高知市 明石市 1/27東京・有楽町銀座爆撃 2/10・16・25群馬県大泉町中島飛行機 福島県原町市 2/17東京都東大和市日立航空    3/4岸和田市 3/7高知市空襲

9年12/7東南海大地震 B29の爆音を録音放送 20年1/13三河地震 1/21国民勤労動員令要綱決定根こそぎ動員へ 2/3米軍、マニラに進入 2/1~2/15ドレスデン大空襲
2/4~2/11ヤルタ会談2/16運輸通信省、軍・公務、緊急要務者を除き、京浜地区着・通過乗車券の発売を停止

第3期

昭和20年

3月上旬



5月下旬


大都市中心の「都市無差別爆撃(絨毯爆撃)」空襲の時期
カーチス・ルメイ指揮による低空からの焼夷弾による焦土作戦の開始
3/10 東京墨東地区(東京下町大空襲)千葉県銚子市 3/11名古屋市 3/12 津市 3/13 大阪市港区 堺市 3/17北九州市(小倉市) 神戸大空襲 岸和田市3/18大分県大分市 鹿児島市 3/19 名古屋市 呉市呉軍港攻防
(東京は全部で106回名古屋は63回大阪は33回の空襲を受けている)
3/25名古屋市 春日井市 3/27小倉市大空襲 福岡県太刀洗町 4/13東京・城北大空襲(豊島・渋谷・向島。深川)4/15東京・城南京浜大空襲(羽田・川崎・蒲田-川崎
4/21県鹿児島市 5/10周南市 5/24東京・千代田区・中央区大空襲(麹町・麻布・牛込・本郷) 5/25東京・山手大空襲(新宿・世田谷・中野・赤坂・皇居炎上 5/29横浜市 

※20年2/4:ヤルタ会談 5/7ドイツ無条件降伏
3/3アメリカ軍マニラ占領 3/9学童疎開強化要綱を閣議決定 3/15大都市における疎開強化要綱を閣議決定(学童、母子など緊急疎開)4/1国民学校初等科以外の授業の4月から1年間停止
3/21硫黄島玉砕(26日全滅) 4/1 米軍沖縄上陸 4/5小磯内閣総辞職   4/7鈴木貫太郎内閣成立
4/6菊水作戦発令―日本軍による特攻作戦 (陸軍機887機戦死1022名、海軍機940機戦死2145名)
4/7戦艦大和沈没 4/12アメリカのルーズベルト大統領急逝
4/22ソ連軍ベルリンに突入 4/30ヒットラー自殺 5/2ベルリン陥落  5/8ドイツ無条件降伏
5/2ベルリン防衛軍司令官降伏(ベルリン陥落) 5/7ドイツ大統領カールデーニック無条件降伏受諾
5/8ドイツ陸海空軍代表ベルリン郊外カールホルストで降伏文書に調印
5/22戦時教育令公布、各学校、職場に学徒隊を結成

 第4期

昭和20年

6月上旬



昭和19年

7月上旬


 ●都市無差別爆撃の地方主要都市への波及の時期
 艦載機による飛行場ほか軍需施設への攻撃
4/2・11武蔵野市中島飛行機 4/3大泉町中島飛行機 太田市 立川市 武蔵野中島飛行機 4/7名古屋市空 津市 4/8鹿児島市 4/11沼津市 武蔵野中島飛行機 4/12田無市  郡山市4/13東京・城北地区空襲 川口4/15東京・城南地区 4/16川崎大空襲 4/21大分県宇佐市 鹿児島市 4/23沼津市 4/26鹿児島加治木町 5/3高知県野市町 5/4沼津市 5/5呉市空襲海軍工廠 5/5鹿児島県指宿市海軍航空隊 5/10 徳山市第三海軍燃料廠空襲 5/11神戸市 5/12鹿児島県児島市 5/13熊本県西合志町傷痍軍人療養所 5/14名古屋市 5/17 静岡県沼津市 5/19磐田町 長野県穂高町 5/25東京・港区空襲 5/28沼津市 5/29横浜市 6/1尼崎市 6/10日立市空襲 6/17鹿児島市空襲 6/18静岡県浜松市空襲 6/19福岡市空襲  静岡市 豊橋市 6/22姫路市 各務原市 水島市 6/26京都市西陣 6/28呉市  6/29佐世保市 岡山市 (京都は10回ほど空襲を受け302名以上の死者を出している)

5月8日連合国はドイツの降伏文書調印に合わせあわせ日本に対して降伏勧告を行うが日本は「戦争遂行声明」の形でこれを拒否する。そのための報復措置としての性格の強い空襲再開となった

● 5/中~5/下旬:都市空襲一時中断

/23沖縄戦終結
6/26国際連合発足(加盟50カ国)。
7/1戦災に伴い配給機構を整理、公営総合配給所を設置
7/1大蔵省、全国銀行預金共通支払制度を実施

アメリカ陸軍第20航空部隊の報告書は
6月15日の大阪空襲で「指定工業集中都市」の攻撃は終了したとしている。これ以後の空襲は、都市空襲(無差別爆撃)の方向性となる

 


第5期

昭和20年

7月上旬



昭和19年

7月下旬

人口10万以下の地方中小都市への無差別爆撃波及の時期
 艦載機による軍事基地・軍需工場・鉄道施設等への機銃攻撃の激化、イギリス軍の加担
7/7千葉市 明石市 清水市 甲府市 7/3 高松市 高知市 徳島市 7/12 敦賀市 宇都宮市 宇和島市空 一宮市空襲 7/14青函連絡船空爆 大湊空襲 八戸市 釜石市艦砲射撃 7/14北海道全域空襲  7/15室蘭市艦砲射撃 半田市 7/16高岡市空襲    大分市 7/16平塚市 7/17桑名市 日立市艦砲射撃 千葉県白浜町野島艦砲射撃 沼津市  新潟市新潟港  京都・阪神大空襲 7/19 岡崎市 福井市7/20長岡市 富山市7/22大方町 土佐山田 7/24富山市 半田市 7/24大垣市パンプキン爆弾投 新宮市艦砲射撃 大阪市空襲  和歌山県新宮市艦砲射撃  7/25 呉市呉軍港空爆 川崎市 7/26島田市パンプキン爆弾投下 富山市パンプキン爆弾投下 7/26大阪市空襲パンプキン爆弾投下 徳山市 松山市 7/26 平市 7/27富山市  大牟田市 荒尾市  鹿児島市 7/28 青森市空襲 宇治山田市 太田市 一の宮市  明石市 呉市 7/29 武蔵野市パンプキン爆弾投下 大垣市 舞鶴軍港 7/29宇和島市 枕崎市 浜松市艦砲射撃 7/30富士吉田市武蔵航空 7/31清水市艦砲射撃  長崎県川棚町 銚子市

 7/7サイパン島玉砕 7/11学徒動員局を設置 7/14青函連絡船翔鳳丸など9隻艦載機の攻撃を受けて沈没
7/18東条英機内閣総辞職 7/20文部省、学童集団疎開の範囲を東京のほか12都市に拡大
7/20:パンプキン爆弾投下(新居浜・大津・東京・いわき・長岡など8/14まで各地に約50発投下)
7/22小磯内閣成立  7/26ポツダム宣言発表 日本側それを無視
 

 

 

 

 

 

第 6期

昭和20年

8月上旬


終戦

 


●戦争終結に向けて無差別空襲、原爆投下
日本のポツダム宣言無視に対する報復的性格16日ソ連軍、南樺太に侵攻開始(28  8/1 新潟県長岡市 八王子市 8/2 水戸市 富山市 8/3沼津市空襲 8/5前橋市  今治市 8/6神戸市 芦屋市空襲 広島市原爆投下 鹿児島市 8/7愛知県海軍工廠空爆 8/大牟田市 8/8岸和田市 福山市 八幡市 8/9 長崎市原爆投下 むつ市  八戸市 釜石市艦砲射撃 8/10花巻市 一関市 堺市 熊本市 8/11久留米市 加治木町 大月市 8/14伊勢崎市 8/14 太田市 熊谷市空襲  春日井市パンプキン爆弾投下 8/14大阪市 岩国市  8/14光市海軍工廠空爆   6/15小田原市 秋田県土崎空襲

8/10 連合国にポツダム宣言受諾を打電8/14御前会議、ポツダム宣言受諾を決定 中立国にポツダム宣言受諾を通告 中ソ不可侵条約締結
8/15正午、戦争終結の詔書を発布 8/15 鈴木内閣総辞職
8月15日終戦の詔勅発表以後の状況 。
9月5日、ソ連軍、千島列島の色丹島を占領。ソ連軍が北方四島の占領を完了。関東軍首脳部がハバロフスクへ移動、後に57万人がシベリア抑留となる。
9月9日 、中国派遣軍総司令官岡村寧次が降伏文書に南京で署名した。
9月13日「大本営」廃止
10月15日  本土の日本軍、武装解除完了9

 資料B
日本軍による海外諸国への空爆
★中国無差別爆撃

●日本は連合国側として第一次世界大戦に参画しドイツと対戦とした。その際ドイツの租借地だった中国の青島(チンタオ)を日本軍は1914年(大正3年)9月5日~11月7日にかけて49回に亘る空襲を敢行した。9月5日青島港内の兵営や電信所に爆弾を手で投下したが、これが日本軍による他国にたいする最初の空襲となった。
●その後日本軍は当時日本の植民地支配下に置かれていた台湾の先住諸民族の居住する山岳地帯を1917年8月に11回爆撃している。また、1930年10月7日抗日勢力が武力蜂起した「霧社事件」のとき、蜂起した先住民族の所属する部落を2ヶ月に渡り空襲を敢行、爆弾とガス弾(青酸及び催涙弾)の投下により住民の間に500~1000人の死者を出した。

●1931年(昭和16年)10月8日、関東軍の爆撃機12機が、遼寧省錦州を空襲し(錦州爆撃)各機に25kg爆弾を5,6個搭載し、計75個の爆弾を投下したが、この行為は国際問題となり。関東軍は「中国軍の対空砲火を受けたため、止むを得ず取った自衛行為」と報告したが、国際連盟により派遣されたリットン調査団は自衛の範囲とは呼びがたいと結論を出した。

●1934年7月7日、盧溝橋事件をきっかけとして日中戦争が勃発、日本軍は錦州の爆撃を端緒として、上海・杭州・南京・広東・武漢・九江・孝感・蘭州・徐州・揚州・桂林・柳州・成都・洛陽・西安・南昌・宝鶏・南陽などの中国の主要都市を爆撃、そのような中国都市爆撃の頂点として1935年(昭和10年)5月に重慶の無差別爆撃を敢行した。

● 1937年8月15日から12月の南京陥落までの4か月間に日本陸海軍は南京市を空襲、市民の間に多くの死傷者を出した。当時の空襲の激しさを、当時の上海に在住していた金陵神学院のヒュバート・ソン牧師は述べ120回以上、ロバート・ウイルソン医師は111回とその日記に記している。

● 1938年2月から1943年4月までの間、重慶爆撃のために台湾の基地を飛び立った日本の飛行機は述べ10.000機に及び、投下爆弾は2万1593発と記録されている(日本軍の記録)、中国側の発表によると重慶の空襲は218回に及び、空襲による直接死者だけで1万18,855人負傷者1万4,100人焼失家屋1万7,608戸となっている。
 重慶爆撃は第2次世界大戦における航空機による焦土作戦(無差別爆撃)の幕開けとなった。ヨーロッパではイギリスとドイツの空爆による無差別爆撃が展開し、やがて日本全土の主要都市が無差別爆撃による焦土作戦の渦に巻き込まれて、日本の100を超す都市が灰燼に帰すという悲惨な結果をまねくことになった。


★日本軍の真珠湾攻撃とアメリカ本土爆撃
●1941年(昭和16年)12月8日、アメリカ軍の海軍基地や航空施設の集積するハワイ・オアフ島は、太平洋制の制海権をねらう日本軍にとっての最大の脅威となっていた。
 日本軍は太平洋戦争開始の直前にハワイ・オアフ島のPearl Harbor(真珠湾)の海軍基地を攻撃してアメリカの海軍に大打撃を与える計画を立てそれを実行した。それによりアメリカ側は、真珠湾に停泊していた軍艦、戦艦4隻を含め5隻が沈没し、ほかに13隻が大きな損傷を受け航空機も347機が破壊されるなど大きな損害を出した。将兵の死者は2,345名、負傷者1,347におよび、民間人の犠牲者も101名負傷者399名にのぼった。この時の日本軍の損害は航空機29機、戦死者54名だった。

 また日本海軍の巡潜乙型潜水艦計9隻は、アメリカの西海岸で12月20日頃から通商破壊戦を展開し、西海岸沿岸を航行中のアメリカのタンカーや貨物船を5隻を撃沈5隻を大破、損害の総トン数は6万4,669トンに上った。さらに昭和17年2月24日には日本海軍の伊17乙型大型潜水艦によるカルフォルニア州セントバーバラ市にあるエルウッド石油製油所への砲撃を行った。これらの日本軍による一連のアメリカ本土への先制攻撃で市民は大混乱となり、はじめての本土の攻撃はアメリカ政府にも大きな衝撃と恐怖を与えることとなりました。ルーズベルト大統領は日本軍の本土上陸は避けられないと判断し、ロッキー山脈で日本軍の侵攻を阻止しようとする作戦をたてた。同時に日系アメリカ人の強制収容を行うことになった。
●さらにアメリカ政府はマスコミの報道規制を敷いて日本軍の本土攻撃に関し、国民の動揺と厭戦気分を防ぐために躍起となったが、その後も日本軍の上陸や空襲の誤報がつづき、ロサンゼルスでは自国の飛行機の飛行を日本軍機の空襲と誤認してしまい高射砲を発射して、その結果市民の間に6人の死者を出すなど(ロスアンジェルスの戦い)パニックをひき起こすことになった。いかにアメリカにとってこの事件が大きな衝撃だったかが解かる。


★ 日本軍によるオーストラリア港湾攻撃と都市空襲
●日本軍は1942年2月から1943年11月までの間に、オーストラリア本土や港湾地域を航空機により少なくとも97回の攻撃をおこなっている。1942年2月19日朝、オーストラリアの港湾都市ダーウィンを242機の艦載機で攻撃した。日本航空母艦4隻(赤城 加賀、飛龍 蒼龍)はオーストラリアの北西部にあるチモール海から計188機の艦載機を発進させ、ダーウィンの港湾施設に大きな被害を与え停泊中の9隻の船舶を沈没させた。オーストラリアの主要基地ダーウィンは海軍基地としての機能を喪失するほどの大きな被害をうけることになった。この攻撃により、少なくとも243人が死亡、数百人の人々が住宅を失うことになった。更に午後には54機の陸上攻撃機がダーウィンの市街地と空軍(RAAF)基地を襲い20機の軍用機を破壊した。この空襲により251人が死亡、300人~400人が負傷した。この日の日本軍によるダーウィン空襲は真珠湾攻撃をしのぐほどの規模だったといわれている。1942年2月~1943年11月までの期間に日本軍はダーウィンやウィンダムの市街地及び港湾施設を50回以上空爆し、またオーストラリア北岸に位置する港湾施設や空軍基地などを40回以上空爆している。