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今こそ憲法を考えよう
〜憲法の本質と自民党新憲法草案の問題点〜
2005−11−3 講演デジメから抜粋

法学館/伊藤塾塾長    
法学館憲法研究所所長  
伊藤 真
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   もくじ
一 今がどういう時代か  
補足  <9条、前文改憲への反対の立易からの私見>   
(1)イマジネーションの欠如論
(2)磁石論
(3)危険な玩具論
(4)リオの伝説のスピーチ論
(5)世界への影響論
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一 今がどういう時代か
 1 ひとり一人が大切にされていない社会
 2 過去の教訓が生かされていない社会

二 そもそも憲法とはどういうものか
 1 憲法とは何か
 法律とは、国民の間の利益と利益の衝突の調整をするもの
 法律はなぜ正しいのか。
 →法律が国民の多数派の意志に従って利益衝突を調整しているから。
 では、国民の多数派に従ったからといって常に「正しい」と言えるのか。
 誰もが情報操作されたり、ムードに流されたり、目先の利益に目を奪われたりする。
 国民の多数意見に従っていても過ちを犯す危険がある。
 多数決も絶対ではない。そこに歯止めをかける必要がある。
 多数決で決めることは必要である。しかし、多数決で奪ってはならない価値もある。
 そのときどきの多数決で奪ってはならない価値を明文化したものが憲法である。
 憲法とは国家権力を制限し、人権を保障するものである(立憲主義の考え)。
 →よって、憲法に人権規定ばかりなのは当たり前である。
2 憲法と法律の違い
 法律は、国民の自由を制限して、社会の秩序を維持するためのもの
 →国民に対する歯止め
 憲法は、国家権力を制限して、国民の人権を保障するもの
 →国家に対する歯止め
  憲法と法律
→→→→→→ 国家 →→→→→
↑                     ↓
制限 ↑ 憲法             法律 ↓ 制限
↑                     ↓
←←←←←← 国民 ←←←←←←
  憲法は、強いものに歯止めをかけるべきもの
    憲法を尊重し擁護する義務を負うのは講か

  第99条【憲法尊重擁護の義務】
    天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

 現代の憲法は、多数派、強者に歯止めをかけて、少数派、弱者を守るためのもの多数派にとってはイマジネーションが不可欠
 →イマジネーションの射程を広げる努カをすること

三 個人の尊重(個人の尊厳)「すべて国民は個人として尊重される」(憲法13条)

 (1)「人はみな同じ」人として尊重
 人間として生きる価値がある点ではみな同じ→具体的なひとり一人
 個人のための国家であり、国家のための個人ではない。
 利己主義、自分勝手とはまったく違う概念
 (2)「人はみな違う」個として尊重
 人と違うことはすばらしい。
 自分の幸せは自分で定義しよう→幸福追求権→自己決定権
 多様性を受け入れて主体的に生きる。
 個人の尊重が人権保障の核となり、その人権保障のために統治機構がある
 →人権が目的で統治が手段「権理」から「権利」そして「人権」へ
      Human rights→right(権利)→正しい
 人権とは人として正しいことをいう。
 これまで人権は人類普遍の原理ではなかった。
 人権は「べき論」であり、主張であり、闘い取るべきもの。

四 日本国憲法の積極的非暴力平和主義

 1 前文1項と9条2項
 (1) 自衛戦争を含めて、一切の戦争を放棄
 ・9条2項が本質的に重要9条1項だけでは新規性なし
 ・軍事力によっては国民の生命と財産を守れない
   再軍備はかえって攻撃の口実を与え、国民を危険にさらす
   cf.アメリカの銃による死者の内訳
 ・暴カの連鎖を断ち切る、非常識は承知の上での人類の壮大な実験
 (2) そもそも憲法は、国家や権力への歯止めを行うところに意味がある。
  国防や国際貢献という美名の下での戦争を禁止することが本質。

前文2項
 (1) 憲法は9条と前文2項で武力によらない平和の実現に貢献することが国際貢献だとする。他国民を信頼することで自国を防衛し、国際貢献することを目指した。
 →「積極的非暴カ平和主義」。一国平和主義とは対極にある考え方である。
 安全保障の根幹は「信頼」にある。
 危機を感じるときほど、よりコミュニケーションを密にすること
 相手の立場に立ってものを考える力を高めること
 民間レベルでの交流をより活発にすること

 (2)世界の構造的暴力をなくすために日本は何をするのかがポイント。
 人間安全保障に向けて一定のリスクを負担しながらも、軍事力によらない貢献をすることを決意。
 ・正義の戦争、武カによる人道支援などない
 →人道目的が非人道的手段を正当化するものではない
 日本独自の国際貢献
 ・戦争のない社会の構築への貢献
 ・国際社会において名誉ある地位
 国際社会の進むべき道を先取りしたもの
 (3)平和を人権として主張するものとした(平和的生存権)。
 平和を単なる国家の政策ではなく、私たちが主張できる人権として規定した。
 「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する
 権利を有することを確認する」(前文第2項)

五 まとめ日本国憲法の2つの特長

  1 世界の近代憲法の嫡流であるという特長(他国と同じところ)
  →個人の尊重のための立憲主義(人権を保障するために権力を拘束する)
  2 日本の先進性の現れで独自のものであるという特長(他国と違うところ)
  →積極的非暴力平和主義

六 「改憲」論議について

1 改憲の必要性
 (1) 押しつけ憲法?
 権力者にとっては常に押しつけられるもの。
 国民が押しっけられたと感じる必要はまったくない。
 押しつけと感じるか、解放と感じるか
 (2) 古くなった?
 アメリカ憲法もイギリス憲法もフランス憲法も、数百年の歴史において、基本的な部分をまったく変えていない。
 アメリカ憲法には社会権条項はない。それでも改憲の主張などない。
 (3) 外国も改正しているから?
 ドイツ憲法など何度も改憲しているが、それは細かな手続的な部分のみ。
 基本原理には一切、手をつけていない。
 (4) プライバシー権、知る権利などを保障するため?
 アメリカ憲法もイギリス憲法もフランス憲法もプライバシー権の明文規定などない。みな、解釈によって解決している。そもそもプライバシー権や環境権などが保障されていないと国民が感じるとしたら、それは憲法のせいではなく、それを保障しようとしない政治の問題。改憲は魔法の杖ではない。政治家が自分たちの無能を憲法のせいにしようとしているだけ。国内における外国人の人権、難民受け入れ、人道支援はどうなっている?
 (5) 9条が理想論にすぎず、非現実的?
2つの現実を知ること
 @人間安全保障という世界の潮流の現実
 Aアメリカの軍夢戦賂に巻き込まれる現実
 (6) 攻められたらどうする?
 ・攻められたら軍事力を持っていようと同じ
 ・抑止力のためなら核を持つ覚悟と無限地獄の覚悟
 ・軍事力を持つことが今よりも国民を安全にするか危険にさらすかがポイント

2 改憲論議をする前に
 (1) 憲法そのものをきちんと知ること。
 憲法と法律の違いすら知らずにいると、抽象的な言葉や大きな議論に流されてしまう。
 まずは憲法の存在理由や、憲法が最も大切にしている価値は何かなど、憲法の基本をまず知ることが必要。基本三原則で止まって いてはだめ。
 (2) どこの誰が利益を受けるのかを具体的、現実的に考えること。
 たとえば、自衛隊を「自衛軍」にすることの目的や効果を考えてみる。軍隊を持つことによってテロから国民を守ることは本当にできる のだろうか。世界最大の軍事カを持つアメリカの同盟国がテロの標的にされる中で、軍事力によって国を守ろうとすることが本当に現 実的なのか。また、現在の改憲論議は単に国防や国際責献という抽象的な目的のものではない。アメリカの国際軍事戦略の中で  日本の軍隊がどのように利用されようとしているのか。そうした現実を見る目を持たないで、ムードや雰囲気に流されてしまうと、取り 返しがっかないことになる。
 (3) 改憲に期待しすぎないこと。
 現在の憲法でもプライバシー権、知る権利は保障されているが、国民がその実感をもてないとしたらそれは、憲法のせいではなく政 治の責任。憲法は決して魔法の杖ではないし、憲法を変えればすべてがよくなるわけではないことを知っておくべき。
 (4) 改憲によって国民はより自由になるのか、より不自由になるのかを見極めること。
 憲法は、政治家を始めとした権力を担う公務員に歯止めをかけて国民の人権を守るための道具であるから、歯止めをかけられている 政治家の側からすれば、歯止めを緩やかにしてほしいと思うのは当然。国家権力ヘの歯止めが緩やかになるということは、その反 作用で、国民がより不自由になることを意味する。その点を自覚しておくこと。
 (5) 憲法が「べき」論であることを忘れないこと。
 そもそも憲法は、私たちがこうある「べき」だと考える価値観の集大成。現実の世界とずれるのは、むしろ当たり前。理想と現実がず れるからこそ、こうある「べき」だと主張して、現実を一定の方向へ向けていく道具としての憲法が必要になる。

3 改憲の影響(後掲の私見を参照)
 (1)人権を制限する根拠が増える
 →国のため、国防のため、国際貢献のため…、国防費が増えると他はどうなるか
 徴兵制になってもよいのか
 最近2年の防衛大学校の退学者が突出して多い現実。
 (2) 文民統制は幻想
 →あぶない玩具は持たない方がよい。
 (3) 磁石論
 →引っ張る力を緩めるともっと前にでてしまう。
 (4) 引き返せない橋を渡る
 →積極的非暴力平和主義はひとたび放棄したら二度と取り戻せない。
 今や戦争のために軍や軍需産業があるのではない。
 軍や軍需産業のために戦争を起こす時代。
 (5) 世界への影響
 →非暴力主義への世界の進歩を後退させてしまう。
 本当にアメリカ追従でいいのか。
 cf.アメリカが署名や批准を拒否している主な条約
女子差別徹廃条約、子どもの権利条約、経済杜会文化権利条約、京都議定書、包括的核実験禁止条約、弾道弾迎撃ミサイル制限条約、生物兵器禁止条約、化学兵器禁止条約、対人地雷禁止条約、国際刑事裁判所規程など(Newsweek2005-2-2より)

4 国民投票法案について
 (1) 国民投票の意味を知ること
 →プレビシット(為政者に対する人気投票)の危険性も知ること
 (2)検討を要する個別の問題が山積み
 ・投票権者の範囲(何歳以上?)
 ・国民投票運動のあり方
 ・投票の方式(一括か個別か)
 ・その他の論点・…周知期間、過半数の意義、周知・広報のあり方等

七 自民党新憲法草案について

〈総論〉

 1 改憲案ではなく新憲法草案であること
 形式的にも新憲法革案とのタイトル
 自主憲法を制定するとの意気込み
 現行憲法の根本価値である積極的非暴力平和主義を否定する内容
 ・改正は現行憲法と連続性を保ちつつ、内容のマイナーチェンジをすること
 →国会議員も96条の範囲内で議論することが可能
 ・新憲法の制定は既存の憲法の価値を否定して、新たな憲法秩序を構築すること
 →主権者たる国民は、現在の国会議員にそのような権限は与えていない
 現行憲法秩序を否定するのであるから、国会議員は99条違反となる。
 一種の政治的クーデターともいうべき行為

 2 内容としての問題点。
 (1) 軍隊の創設
 9条の2          総理大臣を最高指揮権者とする自衛軍
 20条3項、89条1項   社会的儀礼の範囲内なら宗教的活動も許される
 72条            総理大臣が直接、行政各部を指揮監督できる
 →この三位一体の構造で戦争へのハードルを限りなく低くする平和的生存権の規定を廃止し、将来に向かっての積極的非暴力平和主義の展望を失わせる。
 (2) 公の協調
 ・従来の公共の福祉、つまり人権相互の矛盾衝突の調整という概念を否定
 ・個人を越える価値として国家とつながる公益や公の秩序を協調
 ・義務や責任の協調(前文、12条、13条、29条、91条の2第2項)
 ・ 軍事裁判所の規定(76条3項)
 →人権保障規定である憲法の本質の変容
 憲法改正要件の緩和と相まって、憲法の本質を変える危険性
 (3) 地方自治
 ・住民の負担義務を創設(91条の2第2項)
 ・国と地方の役割分担(92条)
 ・ 地方特別法の住民投票を廃止(95条削除)
 →地方の自律性を保てるのか検証必要

〈各論〉

 1 全体的な構成、特徴
 (1) 前文に続き第1章「天皇」第10章「最高法規」まで構成は現行憲法をほぼ踏襲(第99条まで)。
 (2) 第2章のタイトルだけは現行の「戦争の放棄」から「安全保障」に改められた。
 (3) 他党を引きつけて改正の実現を目指した現実路線を選んだ結果、先の衆院選で圧勝した
 自民党にしては従来の主張をやや抑えた内容になっている。

2 前文について
 (1) 全面的に書き換え、党是の「自主憲法制定」を強調。
 (2) 天皇制を基本3原則の前に規定。
 (3) 10月上旬の原案の段階にあった「国を愛する国民の努力によって国の独立を守る」などとして盛り込まれた愛国心や国防の義務などの考えは「国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務を共有」と変えられた。
 (4) 自然との共生についても触れる。

 3 第1章・天皇制について
 (1) 象徴性、世襲制が維持された。
 (2) 以前、明治憲法のように「元首」とすべきだとする意見もあったが、第一次草案と同様に、「現実的に意味がない」復古調と誤解される」などの慎重論が多く、見送られた。

 4 第2章・9条について
 (1) 標題をこれまでの「戦争の放棄」から「安全保障」に変えた
 (2) 「戦争の放棄」などを定めた現行憲法の9条1項はほぼ踏襲し、国際紛争を解決する手段」としての戦争や武カ行使は「永久に行わない」と規定。
 (3) 「陸海空軍の戦力不保持」と「交戦権の否認」を規定した9条2項を削除し、9条の2として、「自衛軍の保持」を明記した。
 →任務としては自衛、国際協調活動のほか、テロ対応や自然災害救助を盛り込んだ。
 →これまで違憲とされ、現在の政府解釈でも禁じられている「集団的自衛権」の行使の用件や
 範囲は、今後制定する安全保障基本法などで具体的に定めるとして結論は先送りされた。
 ←「自衛軍」の組織、運営、活動などは主に「法律」で定められる。問題はないのか?
 (4) 9条の2,2項で、自衛軍の防衛出動や海外派遣などで国会の承認などを義務付け、文民統制(シビリアン・コントロール)を憲法上明確にしたとされているが、果たして自衛軍の統制は十分か。

 5 第3章・国民の権利及び義務について
 (1) 12条に「自由及び権利には義務が伴うことを自覚する」と付け加えられたように、義務規定強化が鮮明になった。
 (2)また、これまで定義があいまいだと指摘のあつた「公共の福祉」について、国家の安全や社会秩序の維持を優先する概念を明確にするため「公益及び公の秩序」に置き換えた。
  ←「個人の尊重」との齟齬
 (3) 「個人情報を守る権利」の新設(19条の2)。
   →「通信の秘密」も19条の2,2項に移された。
 (4) 政教分離について 
  → 後述(6)第7章・財政の項A参照。
 (5) 「知る権利」(国政上の行為に関する説明の責任)にっいての規定の新設(21条の2)。
 (6) 「環境権」についての規定の新設(25条の2)。
 (7) 「犯罪被害者の権利」についての規定の新設(25条の3)。
 (8) 「知的財産権」についての規定の新設(29条2項)。

 6 首相の権限にっいて(第4章・国会と第5章・内閣に関わる)
 (1) 衆議院解散権について・…54条1項で「衆議院の解散は内閣総理大臣が決定する」と首相の解散権を明示した。
 (2) 首相の指揮監督権について…・これまでは閣議決定を経なければ行政各部を指揮監督できなかったが、首相に指揮監督と総合調整の任務を負わせることでするで、首相がリーダーシップを発揮できる仕組みを設けた。←首相が暴走する恐れはないのか。

 7 第6章・司法について
  → 9条の改正に関連して、軍事裁判所(76条3項)を設置することにした。
  ← 最高裁判所を頂点とした「司法制度」が存続、維持できるのか。

 8 第7章・財政について
 (1) 83条2項に「財政健全化」のための訓示規定を置いた。
 (2)  89条の「公の財産の用途樹限」では、「社会的儀礼又は習俗的儀礼の範囲内」なら宗教上の組織への支出を可能とした(20条3項にも同じ文言が付け加えられた)。首相の靖国参拝時の玉串料や供花代へ公金を出した場合でも合憲とするものである。
  ← 政教分離の観点から間題はないのか。

 9 第8章・地方自治について
  → 条文を大幅に拡充し、国が自治体のために「必要な財政上の措置を講ずる」などとした。
  → 91条の3の新設により、「道州制」への道がより可能になった。
  → 95条の廃止
  ← 地方自治に関して詳細な規定が置かれたことは評価できるが、国が地方自治権を侵害するようなことはないのか。

 10 第9章・改正について
 (1) 国会議員の発議の要件を3分の2から過半数に緩稿。
  ← 硬性憲法の意義を減殺することになるのでは。
 (2) 国民投票を不要にしようという意見もあったようであるが、憲法の存在意義からしてこれ
  は採り入れられなかった。

 11 その他
 (1) 政党についての規定(64条の2)  等々

八 最後に……理想を語ってほしい
  理想を忘れないで、志を高く
    憲法は実践してこそ、意味をもつ
                                       以上 

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補足
<9条、前文改憲への反対の立易からの私見>
 最初に確認しておきたいことがある。私たちは戦争のない社会をめざそうとするのか否かということである。私は戦争をなくす方向で議論を積み重ねるべきだと考えている。現実には戦争はなくならないと冷めた目で国際杜会を見て、戦争をなくす努力を放棄するのではなく、あくまでも戦争のない平和な国際杜会を創設する方向への努力を怠るべきでない。その努力によってこそ日本は国際社会において名誉ある地位をしめるべきであるという前提で以下の意見を補足したいと思う。
 国会におけるイラク派遺関連の審議の経緯を見て、自衛軍を創設する方向での改憲にはより一層の反対をすべきだとの考えを強くした。その理由はさまざまあるがここでは、@イマジネーションの欠如論、A磁石論、B危険な玩具論、Cリオの伝説のスピーチ論、D世界への影響論という5つの観点から述べてみたい。なお、本稿は、「対論 戦争、軍隊、この国の行方」(今井一編 青木書店)に収録したものを基礎としている。

(1)イマジネーションの欠如論
 そもそも憲法自体が、多数派による横暴に歯止めをかけ、少数派を守るところにその存在意義があるのであるから、多数派にとっては少数派の苦しみはイマジネーションの世界である。そして、自分がいつ少数派になって苦しむ危険があるかを考えることもまたイマジネーションの問題となる。投票行動において多数派に身を置く者は、つねにこのイマジネーションを最大限に発揮しなければならない。
 特に、改憲の議論をすることは将来、この国がどうなるかを見通していくことであり、将来への影響を考えることであるから、それはイマジネーションを働かせなければ理解できない。それがこの問題を抽象的でつまらない議論と思わせてしまう原因の一つであるように思う。改憲が実行され国防軍を持つことによって、この国がどのようになり、また、どこに影響が及ぶのかを想像することはきわめて重要なことである。そうしたイマジネーションを国民が共有できて初めて、その将来像に同意できるかどうかを決める国民投票に安心して参加することができる。この国民投票で将来どうなるかがまったくイメージできなければ、そうした投票やそこに向けての議論に参加する者はいないであろう。少なくとも、忙しい仕事の合間に議論をしたり、ゲームを止めてテレビで改憲論議のニュースを聴いたりはしない。毎日はもっと具体的な問題で忙しいのである。イマジネーションによって改憲を自分のこととして考えることができ、また、改憲の持つ大きな影響について想像力を働かせることができて初めて、それでもよいのかそれでは困るのかの判断ができるようになる。ところが現状では政治家および国民にこのイマジネーションがあまりに欠如し下いるように思われる。
 日本が戦争のできる国になった場合、軍人は危険な任務の命令を受けてこれに従事しなければならない。国家の組織の中で仕事をする者は、いくら上官の命令が理不尽であってもそれに従わなければなら在いのであるから、残酷である。先の戦争中に玉砕せよと命ぜられた旧日本軍兵士のときから状況はまったく変わっていない。前文、9条が改憲されれば、こうしたことが日常的に引き起こされ、私たちは自分の最愛の人が巻き込まれる危険性を常に意識しなければならなくなる。何も軍人だけの問題ではない、戦争は国民をあげての総カ戦であるから、航空労働者、船舶労働者、港湾労働者、医療従事者、兵器技術者などありとあらゆる分野の国民が直接、危険にさらされることになる。
 多数派の人間は、自分たちが直接痛みを感じるわけではないからといって安穏としていると、知らないうちに有無をいわさぬ業務命令によって危険を強いられる少数派になっているかもしれない。
 改憲は、本来、弱者への理不尽がより少なくなる方向で行われるべきである。軍隊を持つということはますます理不尽を強いられる人間が増えることを意味する。仮に自分の意思で軍人になったとしても、個別の戦争には反対の立場の者も当然にいるであろう。今回のように大義のない理不尽な戦争に参加させられることがあることもしっかりとイマジネーションを働かせて想像すべきである。
 現在は9条があるから、徴兵制は違憲である。しかし、自衛軍が創設され、軍事力による防衛が正当化されると、それが国民の人権制限の正当化事由となる。つまり、国防のために兵役を義務づけ、軍隊の安全のために表現の自由や報道の自由が制限される。現在でも自衛隊の安全のために報道規制がなされようとしているのは周知の通りである。それが日常的になる。行政の透明性が国防のため、軍隊の安全という理由で一気に失われ、情報公開どころか、ますます閉鎖的で不透明になり、国民は必要な情報を得られずに誤った判断を下す危険にさらされる。
 9条改憲は、一見無関係に思われる部分にも影響する。たとえば、正しい戦争つまり正しい人殺しが存在することを憲法が正面から認めることになるのであるから、これまでの死刑廃止の議論は大きく後退せざるをえなくなる。たとえ自衛や人道のためであれ戦争を肯定するのであるから、人の命を政治の手段に使うことを認めることになり、命の価値が相対化してしまう。国益のためなら個人の命が犠牲になってもやむを得ないという考えが定着していく。国家が行う大量殺人は人道のためということで正当化され、組織化された軍隊をもてない人々による殺人はテロとして糾弾される。ゲリラ活動とテロとの区別も不分明となり、大人は、子どもたちに暴力はいけません、人の命は大切ですと説明することができなくなる。
 9条を改悪して戦争を肯定することの波及効果ははかりしれない。このことでイマジネーションを働かせて理解すべきである。

(2)磁石論
 現在、日本は軍隊の保有を禁じられ、国際紛争解決の手段としての武カの行使も禁止されている。にもかかわらず、「ならず者国家」の元首を暗殺するために軍隊を行使する国を支援した。ここでは、9条が自衛隊をアメリカの侵略戦争に正面から荷担することをかろうじてくいとめている。あたかも磁石のように侵賂戦争に進まないように平和の側へ引っ張っているのである。もし、この9条の歯止めがなくなってしまったら今後どうなってしまうであろうか。国防と国際貢献のために軍隊を持っことが許されると、歯止めが緩んでさらに先に進んでしまい、国際貢献の名の下に軍隊が使われ、ますます大義のない戦争に巻き込まれる危険が増す。明白な侵略や強国による一方的な価値観の押しつけを伴う国際紛争解決の手段として使われる危険さえでてくる。ただでさえ、国際貢献や人道という美名のもとに歯止めが緩みがちな軍事力の行使には、厳しい糊限が必要である。特に、日本では、今回のイラク派遣の問題を見てもわかるように一度暴走し始めた権力への民主的コントロールがまったくきかない。文民統制は幻想である。たとえ磁石という理想から現実が離れているとしても、ここで現実に妥協して磁石を先に進めてしまうと、現実はさらに先に離れていってしまう。悲しいことに理想と現実はつねに一定の距離をあけてしまうものだからである。
 しかし、だからといって憲法の理想と現実の乖離を放置することを憲法規範自体は許していない。現実を理想に近づける力が働くのである。改憲して許してしまったら磁石の力がなくなってしまい、どんどんあるべき姿から離れていってしまうであろう。もちろん、あまりにも離れすぎると磁石の力が屈かなくなり、磁石としての存在意義もなくなる回しかし、現在はまだそのような状態ではないと考えている。強行採決されてしまったとはいえ、国会でもイラク派遣には反対の立場の政治家は多かったし、改憲を主張する識者の中にも今回のイラク派遣は許せないという人も多い。それはまだ政治家や国民の中に憲法の規範意識が残っているからであり、まったく憲法という磁石の力が届かないところに現実が離れていってしまったわけではないことを示している。
 それでは、憲法の最高法規性が立法府によって侵されているとき、理想である憲法の規範に実態を近づけるには講が何をすればよいのだろうか。
 この点に関して、憲法は自らの価値がときの権力によって侵害されたときのためにさまざまな装置を憲法自体の中に組み込んでいることを想起すべきである。権力分立もそうであるし、地方自治、違憲審査制もそうである。私は具体的には、中央の立法府が憲法の最高法規性を踏みにじろうとしているときには、それ以外の機関、つまり司法権と地方自治体が抑止力を発揮すべきと考える。
 憲法は裁判所に憲法価値の最終的な擁護者としての地位を与えている。違憲立法審査権(81条)である。もちろん現在の栽判所がただちに自衛隊のイラク派遣を違憲と判断するとは考えていない。しかし、あまりにも露骨な憲法達反があったときに裁判所がそれに冒をつぶることは最高裁判所としての存在意義を失わせることになり、裁判官も法の番人としての誇りを失うことになる。裁判官は自分自身の法律家としての名誉にかけて、明白な違憲状態には歯止めをかけようとするはずである。そうした裁判所の変化の兆しは最近の判例に見ることができる。
 もうひとつ、私が期待するのは地方自治体である。中央への抑止力として地方自治体の力は今後ますます大きくなるにちがいない。地方自治は住民がそのトップを直接選ぶことができるため、民意を直接反映しやすい仕組みである。私たち国民は憲法価値を擁護したいのなら、住民に身近な問題を抱え、声を吸い上げることができる地方から日本を変えることをもっと真剣に考えていくべきだと思っている。
 そしてもちろん、最終的に憲法規範を守らせるのは国民である。憲法は国民の生活と権利を守るために存在するのであり、国民が憲法を守らせる側の担い手なのであるから、マスコミやジャーナリストがしっかりとした監視機能を発揮し、国民が憲法を学習し、政治家の行動や発言をチェックしていくことが不可欠である。選挙の場に争点を提示して、国民が自立的な判断をすることである。
 そのためにどうしても都市と地方における投票価値の格差をなくさなければならない。現在この国には衆議院で3倍、参議院で5倍の格差が放置されている。つまり日本という国は今現在、民意を正しく反映できる民主主義の国ではないのである。このような状態で国会での議論といってもそれは茶番でしかない。1票の投票価値に5倍以上の差があるということは、地方の人々が都市部の5倍の人数の代表者を国会に送り出していることを意味する。それでも平等だと言い続けるのではこの国に未来はない。2004年に出た参議院議員定数不均等事件判決(最高裁平成16年1月14日)において、最高裁はからくも合憲判決を出しはしたが、裁判所の存在意義を問うような反対意見も増えてきた。ようやく最高裁判所も自らの存在意義を認識し、合憲判決を繰り返すことを止める気配が出てきたのである。司法が本来の役割を発揮しなければ、国民の意見が政治に正確に反映されず、国民の政治離れを助長し、自分のこととして政治や憲法を考える国民がますます減少してしまうであろう。法律家の責任は重いと考える。

(3)危険な玩具論
 これは、分不相応な危険な玩具は持たない方が身のためであるし、世の中のためであるという意味である。日本は軍隊を民主的にコントロールすることに対しては特に不得手である。というか、そもそも権カを民主的にコントロールすることさえ未だに国民はよく訓練されていない。民主主義の成熱度がいまひとつと言ってしまってもいいかもしれない。何か紛争が起こったときに十分に審議し、議論を重ねてよりよい結論を導くという民主主義の基本が国会ではまったくなされていない。このように国会が機能不全に陥ると議会制民主主義は役に立たない、よって大衆民主主義がいいのだ、直接民主主義に限るという議論が生まれ、国民投票ですべてを決めればいいではないかという安易な方向に流れやすい。しかし、国会でさえ十分に議論ができないにもかかわらず、国民レベルでこのような大きな問題について果たして議論などできるのであろうか。民主主義においては、審議討論をしつこく重ね、妥協によって統一的な国家意思を形成していくことが不可欠なのであるが、政治家も国民もそのようなことの経験を積んできてはいない。
 小泉首相は2002年の選挙で自民党、公明党が支持されたのであるからイラク派遺には国民の合意があると強弁していた。しかし、国民はイラク派遣や改憲の大きな問題があったにもかからず、年金問題や経済政策などの目先の問題に目を奪われて投票をした。国民は自分とは遠いところの重大問題よりも身近な問題の方が気になるのであり、それが投票行動の基準になっていく。これはなにも日本人に限ったことではないが、諸外国との大きな違いは、一般国民のみならず、国会議員など本来のエリートも、組織の維持や次の選挙など目先のことのみを考えて行動してしまう点にある。つまり、エリートがエリートとしての役割を果たしていないのである。このような国において軍隊の文民統制など可能であろうか。
 私は自らコントロールできない危険なしろものは持つべきではないと考えている。軍隊という危険な組織はときに国民に銃を向け、ときに外国の無実の市民を死に追いやる。人を殺すことを専門的に教育された組織が存在するのであるから、よほどきちんと統制をしないとこの暴力装置が暴走し大変なことになる。また、持っているとどうしても使いたくなるめは人情であろう。武器を使い消費すればするほど儲かる軍需産業が後押しするとなるとなおさらである。そうした業界による圧カはこれまでの政治献金とは桁外れの影響力をもつことになるであろう。よほどコントロールの自信がない限り、こうした分不相応な危険な玩具は持たないに越したことはない。
 そもそも憲法は時の多数派によっては侵すことのできない価値を予め定めておくものである。それは、そのときどきの多数意思は誤った判断をする危険性がある、つまり人間は過ちを犯す不完全な生き物だという人間に対する謙虚さから生まれた人類の英知である。我々自身も過ちを犯す危険性のあるものは予め排除しておくという謙虚さを持つべきだと思う。

(4)リオの伝説のスピーチ論リオの伝説のスピーチ
 今、改憲をして軍隊を持つことは、非暴力主義への歩みを止めることを意昧する。つまり将来の国民の幸せのあり方までここで変えようとしているのである。私たちはこの日本の将来の人々に対してまで責任を持てるのであろうか。それは不可能である。
 軍隊を持つ普通の国にはいつでもなれるが、非暴力主義という特別の国にはそう簡単にはなれない。そのことを考えるといつでもなれる普通の国への変更は本当に慎重にした方がいいと思う。もう戻れない覚悟の上で変更しなければならない。
 一般に軍隊を持つ国から持たない国への変更は不可能に近い。よほどのことがない限り国民自らの意思でそのような大変革を行うことは不可能であろう。ひとたび軍隊を持てば、一般には国防のため、国際貢献のために必要だという名目で拡大の一途をたどるであろう。日本でも軍需産業との間にアメリカ並みの利権構造が生まれ、それが新たな問題を引き起こすに違いない。軍隊を持ち、武器の製造と輸出を可能としてしまったら、まず元に戻ることは不可能である。一気に死の商人の道を突き進み、日本の軍需産業はその高度な技術力をもって世界の紛争をより悲惨なものにすることに多大な貢献をするであろう。一端、軍需産業と利権構造がこの国を支配してしまったらそれをなくし、積極的非暴力平和主義に戻ることは、再び大きな戦争やテロに巻き込まれて、国民が痛い目に遭うことでもなければ不可能である。
 日本は多大な犠牲をはらって先の戦争に負けたことによって、たまたまその希有なチャンスを与えられた幸運な国なのである。その幸運をみずからみすみす捨て去ることの愚かさを知るべきである。失ってからその大切さを知るのは何も親や健康だけではない。軍事力によらない平和国家を得るためにどれだけの犠牲がさらに必要となるのか、元に戻す方法を知らないことはやめておいた方がいい。
 このことを考えるといつも、リオの環境サミットで12歳の少女が世界中を感動させた伝説のスピーチを思い出す。「オゾン層にあいた穴をどうやってふさぐのか、あなたは知らないでしょう。死んだ川にどうやってサケを呼び戻すのか、あなたは知らないでしょう。絶滅した動物をどうやって生きかえらせるのか、あなたは知らないでしょう。そして、今や砂漠となってしまった場所にどうやって森をよみがえらせるのか、あなたは知らないでしょう。どうやって直すのかわからないものを壊し続けるのはもうやめてください。」(あなたが世界を変える日、セヴァン・カリス=スズキ著、学陽書房より)
 積極的非暴力平和主義という考え方は一端捨ててしてしまったら、壊してしまったら、再び取り戻すことはきわめて困難である。捨てるのは必死で維持する努力をしてみてからでも遅くはない。

(5)世界への影響論
 事柄が日本国内にとどまるならば、主権者である国民がみずからの投票で決定することも許されよう。しかし、世界に大きな影響を与えることであるとしたら、単に日本人が自分たちのことだけを考えて判断することは許されないように思う。
 9条の改悪は、世界の戦争違法化への流れを止めてしまうと危倶している。私は全世界が、できるだけ戦争をなくす方向へ進むことが人類の進歩であると考えている。少なくとも戦争の世紀と呼ばれる20世紀なかばからそのような努力を国際社会は積み重ねてきた。ジャングルの中のように強い力をもった者が他をねじ伏せる。つまり、強国の価値観が唯一の価値で、それに従わない者は暴力によって鎮圧されるというような世界は健全ではない。多様な価値観の併存を認め、仮に価値の衝突があったとしても、暴力によって優劣を決めるのではなく、対話と外交努力によって紛争を解決しようとすることが国際社会の進むべき道であると信じる。その方向をまさに日本国憲法は先取していたのである。その憲法が自らの独自性を放棄することは、日本一国の問題にとどまらず、いま再び国際法無視の暴力万能の国際杜会に後戻りしようとしている世界がその重要な歯止めを失うことになる。非暴力主義への世界の進歩を止め、逆行する方向に弾みをつけることになってしまう。それは日本が国際社会からの尊敬を失い、大きな意味での国益を損ねる行為だと考える。
 確かに20世紀は戦争の世紀であった。2つの世界大戦、そして多くの独立戦争や内戦などで幼い命や弱い者たちの命が失われていった。だが、人はこうして殺し合いを続けながらも、他方ではまた新たな命を生み出している。この命の連鎖は驚異的である。戦争が永久に続くように見えても、この命の鎖もまた永遠に続く。私たち人間には生き続けようとする根元的な欲求とそれを実現する力が備わっているようだ。そしてその生きるという意欲を権力に対して主張することこそが人権の本質である。平和的生存権だ。私はこの平和的生存権こそがあらゆる人権の中でもっとも根元的で重要なものと考えている。人は殺し合いもするけれど、やはり平和の中で生きたいと願い続けるものなのである。
 そうして人は立ちあがることができる。人類の生命の連鎖の中で自分の一生はほんのわずかだが、その鎖の輪の貴重なひとつであることもまた聞違いない。人類という大きな長い鎖の中での役割を自覚することが必要だと思っている。
 私たちは単に死ぬために生まれてきたのか、そうではないだろう。やはりよりよく生きるために、多くの人がより幸せを感じて生きることができる世界をつくるために、多くの新しい命は生まれてくるのだと思う。憎しみを持つために生まれてくるのではなく、人を愛するために生まれてくるのだと信じている。
 人には想像力と理想を追い求める力がある。この2つの力で、現実に妥協し目先の利益だけを追い求めようとする自分に歯止めをかけることができる。そして人には何よりも愛の力が備わっている。自分を愛する力、人を愛する力である。何が起ころうと自分を見捨てず大切にし、そして周りの人を思いやる力を発揮できるはずだ。人はそうして命の鎖をつなげてきたのだから。私はこの力を信じたい。
 この駄文につき合ってくださった皆さんの人生が世界の人々の幸せづくりに貢献し、そのことによって価値ある生であることが実感できることを願ってやまない。そして、世界の子どもたちの笑顔が少しでも増えることを心から祈っている。

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