あたらしい憲法のはなし (日本国憲法・自民党改憲草案の分析と批判)

目次  日本国憲法  日本国憲法 自民党新憲法草案」の分析と批判 「改憲手続き法案」の問題と批判
         
1.憲法 前文 前文
2.民主主義とは
3.国際平和主義
4.主権在民
5.天皇陛下 第一章 天皇 第1章 天皇
6.戦争の放棄 第二章 戦争の放棄 第2章 安全保障
7.基本的人権 第三章 国民の権利及び義務 第3章 国民の権利及び義務
8.国会 第四章 国会 第4章 国会
9.政党
10.内閣 第五章 内閣 第5章 内閣
11.司法 第六章 司法 第6章 司法
12.財政 第七章 財政 第7章 財政
13.地方自治 第八章 地方自治 第8章 地方自治
14改正 第九章 改正 第9章 改正
15.最高法規  第十章 最高法規 第10章 最高法規
●.あとがき 第十一章 補則
自民革新憲法草案」の要点  自民革新憲法草案」の要点
日本国憲法の誕生  日本国憲法の誕生 自民党日本国憲法改正草案案  現行憲法対照(PDF版) 自民党日本国憲法改正草案 現行憲法対照
                       
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1.憲法

 みなさん、あたらしい憲法ができました。そうして昭和二十二年五月三日から、私たち日本国民は、この憲法を守ってゆくことになりました。このあたらしい憲法をこしらえるために、たくさんの人々が、たいへん苦心をなさいました。ところでみなさんは、憲法というものはどんなものかごぞんじですか。じぶんの身にかかわりのないことのようにおもっている人はないでしょうか。もしそうならば、それは大きなまちがいです。
 国の仕事は、一日も休むことはできません。また、国を治めてゆく仕事のやりかたは、はっきりときめておかなければなりません。そのためには、いろいろな規則がいるのです。この規則はたくさんありますが、そのうちで、いちばん大事な規則が憲法です。
 国をどういうふうに治め、国の仕事をどういうふうにやってゆくかということをきめた、いちばん根本になっている規則が憲法です。もしみなさんの家の柱がなくなったとしたらどうでしょう。家はたちまちたおれてしまうでしょう。いま国を家にたとえると、ちょうど柱にあたるものが憲法です。もし憲法がなければ、国の中におゝぜいの人がいても、どうして国を治めてゆくかということがわかりません。
 それでどこの国でも、憲法をいちばん大事な規則として、これをたいせつに守ってゆくのです。国でいちばん大事な規則は、いいかえれば、いちばん高い位にある規則ですから、これを国の「最高法規」というのです。
ところがこの憲法には、いまおはなししたように、国の仕事のやりかたのほかに、もう一つ大事なことが書いてあるのです。それは国民の権利のことです。この権利のことは、あとでくわしくおはなししますから、こゝではたゞ、なぜそれが、国の仕事のやりかたをきめた規則と同じように大事であるか、ということだけをおはなししておきましょう。
 みなさんは日本国民のうちのひとりです。国民のひとりひとりが、かしこくなり、強くならなければ、国民ぜんたいがかしこく、また、強くなれません。国の力のもとは、ひとりひとりの国民にあります。そこで国は、この国民のとりひとりの力をはっきりとみとめて、しっかりと守ってゆくのです。そのために、国民のとりひとりに、いろいろ大事な権利があることを、憲法できめていいるのです。この国民の大事な権利のことを「基本的人権」というのです。これも憲法の中に書いてあるのです。
そこでもういちど、憲法とはどういうものであるかということを申しておきます。憲法とは、国でいちばん大事な規則、すなわち「最高法規」というもので、その中には、だいたい二つのことが記されています。その一つは、国の治めかた、国の仕事のやりかたをきめた規則です。もう一つは、国民のいちばん大事な権利、即ち「基本的人権」をきめた規則です。このほかにまた憲法は、その必要により、いろいろのことをきめることがあります。こんどの憲法にも、あとでおはなしするように、これからは戦争をけっしてしないという、たいせつなことがきめられています。
 これまであった憲法は、明治二十二年にできたもので、これは明治天皇がおつくりになって、国民にあたえられたものです。しかし、こんどのあたらしい憲法は、日本国民がじぶんでつくったもので、日本国民のぜんたいの意見で、自由につくられたものであります。この国民ぜんたいの意見を知るために、昭和二十一年四月十日に総選挙が行われ、あたらしい国民の代表がえらばれて、その人々がこの憲法をつくったのです。それで、あたらしい憲法は、国民ぜんたいでつくったということになるのです。
みなさんも日本国民のひとりです。そうすれば、この憲法は、みなさんのつくったものです。みなさんは、じぶんでつくったものを、大事になさるでしょう。こんどの憲法はみなさんをふくめた国民ぜんたいのつくったものであり、国でいちばん大事な規則であるとするならば、みなさんは、国民のひとりとして、しっかりとこの憲法を守ってゆかなければなりません。そのためには、まずこの憲法に、どういうことが書いてあるかを、はっきりと知らなければなりません。
 みなさんが、何かゲームのために規則のようなものをきめるときに、みんないっしょに書いてしまっては、わかりにくいでしょう。国の規則もそれと同じで、一つ一つ事柄にしたがって分けて書き、それに番号をつけて、第何条、第何条というように順々に記します。こんどの憲法は、第一条から第百三条まであります。そうしてそのほかに、前書が、いちばんはじめにつけてあります。これを「前文」といいます。
 この前文には、だれがこの憲法をつくったかということや、どんな考えでこの憲法の規則ができているかということなどが記されています。この前文というものは、二つのはたらきをするのです。その一つは、みなさんが憲法をよんで、その意味を知ろうとするときに、手びきになることです。つまりこんどの憲法は、その前文に記されたような考えからできたものですから、前文にある考えと、ちがったふうに考えてはならないということです。もう一つのはたらきは、これからさき、この憲法をかえるときに、この前文に記された考え方と、ちがうようなかえかたをしてはならないということです。
 それなら、この前文の考えというのはなんでしょう。いちばん大事な考えが三つあります。それは「民主主義」と「国際平和主義」と「主権在民主義」です。「主義」という言葉をつかうと、なんだかむずかしくきこえますけれども、少しもむずかしく考えることはありません。主義というのは、正しいとお思う、もののやりかたのことです。それでみなさんは、この三つのことを知らなければなりません。まず「民主主義」からおはなししましょう。

二 民主主義とは  前文

 こんどの憲法の根本となっている考えの第一は民主主義です。ところで民主主義とは、いったいどういうことでしょう。みなさんはこのことばを、ほうぼうできいたことでしょう。これがあたらしい憲法の根本になっているものとすれば、みなさんははっきりとこれを知っておかなければなりません。しかも正しく知っておかなければなりません。
 みなさんがおゝぜいあつまって、いっしょに何かするときのことを考えてごらんなさい。だれの意見で物事をきめますか。もしもみんなの意見が同じなら、もんだいはありません。もし意見が分かれたときは、どうしますか。ひとりの意見できめますか。二人の意見できめますか。それともおゝぜいの意見できめますか。どれがよいでしょう。ひとりの意見が、正しくすぐれていておゝぜいの意見が、まちがっておとっていることもあります。しかし、そのはんたいのことがもっとも多いでしょう。そこで、まずみんなが十分にじぶんの考えをはなしあったあとで、おゝぜいの意見で、物事をきめてゆくのが、いちばんまちがいがないということになります。
 そうして、あとの人は、このおゝぜいの人の意見にすなおにしたがってゆくのがよいのです。このなるべくおゝぜいの人の意見で、物事をきめてゆくことが、民主主義のやりかたです。
国を治めてゆくのもこれと同じです。わずかの人の意見で国を治めてゆくのは、よくないのです。国民ぜんたいの意見で、国を治めてゆくのがいちばんよいのです。
つまり国民ぜんたいが、国を治めてゆく----これが民主主義の治めかたです。
  しかし国は、みなさんの学級とはちがいます。国民ぜんたいがひとところにあつまって、そうだんすることはできません。ひとりひとりの意見を、きいてまわることもできません。そこで、みんなの代わりになって、国の仕事のやりかたをきめるものがなければなりません。それが国会です。国民が、国会の議員を選挙するのは、じぶんの代わりになって、国を治めてゆく者をえらぶのです。だから国会では、なんでも国民の代わりである議員のおゝぜいの意見で物事をきめます。そうしてほかの議員は、これにしたがいます。これが国民ぜんたいの意見で物事をきめたことになるのです。これが民主主義です。ですから、民主主義とは、国民ぜんたいで、国を治めてゆくことです。みんなの意見で物事をきめてゆくのが、いちばんまちがいがすくないのです。だから民主主義で国を治めてゆけば、みなさんは幸福になり、また国もさかえてゆくのでしょう。
 国は大きいので、このように国の仕事を国会の議員にまかせてきめてゆきますから、国会は国民の代わりになるものです。この「代わりになる」ということを、「代表」といいます。まえに申しましたように、民主主義は、国民ぜんたいで国を治めてゆくことですが、国会が国民ぜんたいを代表して、国のことをきめてゆきますから、これを「代表制民主主義」のやりかたといいます。
 しかしいちばん大事なことは、国会にまかせておかないで、国民が、じぶんで意見をきめることがあります。こんどの憲法でも、たとえばこの憲法をかえるときは、国会だけできめないで、国民ひとりひとりが、賛成か反対かを投票してきめることになっています。このときは、国民が直接に国のことをきめますから、これを「直接民主主義」のやりかたといいます。あたらしい憲法は、代表制民主主義と直接民 主主義と、二つのやりかたで国を治めてゆくことにしていますが、代表制民主主義のやりかたのほうが、おもになっていて、直接民主主義のやりかたは、いちばん大事なことにかぎられているのです。だからこんどの憲法は、だいたい代表制民主主義のやりかたになっているといってもよいのです。
 みなさんは日本国民のひとりです。しかしまだこどもです。国のことは、みなさんが二十歳になって、はじめてきめてゆくことができるのです。国会の議員をえらぶのも、国のことについて投票するのも、みなさんが二十歳になって、はじめてできることです。みなさんのおにいさんや、おねえさんには、二十歳以上の方もおいででしょう。そのおにいさんやおねえさんが、選挙の投票にゆかれるのをみて、みなさんはどんな気がしましたか。いまのうちに、よく勉強して、国を治めることや憲法のことなどを、よく知っておいてください。もうすぐみなさんも、おにいさんやおねえさんといっしょに、国のことを、じぶんできめてゆくことができるのです。みなさんの考えとはたらきで国が治まってゆくのです。みんながなかよく、じぶんで、じぶんの国のことをやってゆくくらい、たのしいことはありません。これが民主主義というものです。

三 国際平和主義

 国の中で、国民ぜんたいで、物事をきめてゆくことを、民主主義といいましたが、国民の意見は、人によってずいぶんちがっています。しかし、おゝぜいのほうの意見にすなおにしたがってゆき、またそのおゝぜいのほうも、すくないほうの意見をよくきいてじぶんの意見をきめ、みんなが、なかよく国の仕事をやってゆくのであなければ、民主主義のやりかたは、なりたたないのです。
これは、一つの国について申しましたが、国と国との間のことも同じことです。じぶんの国のことばかり考え、じぶんの国のためばかりを考えて、ほかの国の立場を考えないでは、世界中の国が、なかよくしていくことはできません。世界中の国が、いくさをしないで、なかよくやってゆくことを、国際平和主義といいます。だから民主主義ということは、この国際平和主義と、たいへんふかい関係があるのです。こんどの憲法で、民主主義のやりかたをきめたからには、またほかの国にたいしても、国際平和主義でやってゆくということになるのは、あたりまえであります。
 この国際平和主義をわすれて、じぶんの国のことばかり考えていたので、とうとう戦争をはじめてしまったのです。そこであたらしい憲法では、前文の中にこれからは、この国際平和主義でやってゆくということを、力強いことばで書いてあります。またこの考えが、あとでのべる戦争の放棄、すなわち、これからは、いっさい、いくさはしないということをきめることになってゆくのであります。

四 主権在民主義

 みなさんがあつまって、だれがいちばんえらいかをきめてごらんなさい。いったい、「いちばんえらい」というのは、どういうことでしょう、勉強のよくできることでしょうか。それとも力の強いことでしょうか。いろいろきめかたがあってむずかしいことです。
 国では、だれが「いちばんえらい」といえるでしょう。もし国の仕事が、ひとりの考えできまるならば、そのひとりが、いちばんえらいといわなければなりません。もしおゝぜいの考えできまるなら、そのおゝぜいが、いちばんえらいことになります。もし国民ぜんたいの考えできまるならば、国民ぜんたいが、いちばんえらいのです。こんどの憲法は、民主主義の憲法ですから、国民ぜんたいの考えで国を治めてゆきます。そうすると、国民ぜんたいがいちばん、えらいといわなければなりません。
 国を治めてゆく力のことを「主権」といいますが、この力が国民ぜんたいにあれば、これを「主権は国民にある」といいます。こんどの憲法は、いま申したように、民主主義を根本の考えとしていますから、主権はとうぜん日本国民にあるわけです。そこで前文の中にも、また憲法の第一条にも「主権が国民に存する」と、はっきりかいてあるのです。主権が国民にあることを「主権在民」といいます。あたらしい憲法は、主権在民という考えでできていますから、主権在民主義の憲法であるということになるのです。
 みなさんは、日本国民のひとりです。主権をもっている日本国民のひとりです。しかし、主権は日本国民ぜんたいにあるのです。ひとりひとりが、べつべつびもっているのではありません。ひとりひとりが、みなじぶんがいちばんえらいと思って、勝手なことをしてもよいということでは、けっしてありません。それは民主主義にあわないことになります。みなさんは、主権をもっている日本国民のひとりであるということに、ほこりをもつとともに、責任を感じなければなりません。よいこどもであるとともに、よい国民でなければなりません。

五 天皇陛下  第一章 天皇

 こんどの戦争で、天皇陛下は、たいへんごくろうをなさいました。なぜならば、古い憲法では、天皇をお助けして国の仕事をした人々は、国民ぜんたいがえらんだものではなかったので、国民の考えとはなれて、とうとう戦争になったからです。そこで、これからさき国を治めてゆくについて、二度とこのようなことのないように、あたらしい憲法をこしらえるとき、たいへん苦心をいたしました。ですから、天皇は、憲法で定めたお仕事だけをされ、政治には関係されないことになりました。
 憲法は、天皇陛下を、「象徴」としてゆくことにきめました。みなさんは、この象徴ということを、はっきりしらなければなりません。日の丸の国旗を見れば、日本の国をおもいだすでしょう。国旗が国の代わりになって、国をあらわすからです。みなさんの学校の記章を見れば、どこの学校の生徒かがわかるでしょう。記章が学校の代わりになって。学校をあらわすからです。いまここに何か眼に見えるものがあって、ほかの眼に見えないものの代わりになって、それをあらわすときに、これを「象徴」ということばでいいあらわすのです。こんどの憲法の第一条は、天皇陛下を「日本国の象徴」としているのです。つまり天皇陛下は、日本の国をあらわされるお方ということであります。
 また憲法第一条は、天皇陛下を、「日本国民統合の象徴」であるとも書いてあるのです。「統合」というのは「一つにまとまっている」ということです。つまり天皇陛下は、一つにまとまった日本国民の象徴でいらっしゃいます。これは、私たち日本国民ぜんたいの中心としておいでになるお方ということなのです。それで天皇陛下は、国民ぜんたいをあらわされるのです。
 このような地位に天皇陛下をお置き申したのは、日本国民ぜんたいの考えにあるのです。これからさき、国を治めてゆく仕事は、みな国民がじぶんでやってゆかなければなりません。天皇陛下は、けっして神様ではありません。国民と同じような人間でいらっしゃいます。ラジオのほうそうもなさいました。小さな町のすみにもおいでになりました。ですから私たちは、天皇陛下を私たちのまん中にしっかりとお置きして、国を治めてゆくについてごくろうのないようにしなければなりません。これで憲法が、天皇陛下を象徴とした意味がおわかりでしょう。

六 戦争の放棄  第二章 戦争の放棄

 みなさんの中には、今度の戦争に、おとうさんやにいさんを送りだされた人も多いでしょう。ごぶじにおかえりになったでしょうか。それともとうとうおかえりにならなかったでしょうか。また、くうしゅうで、家やうちの人を、なくされた人も多いでしょう。いまやっと戦争はおわりました。二度とこんなおそろしい、かなしい思いをしたくないと思いませんか。こんな戦争をして、日本の国はどんな利益があったでしょうか。何もありません。ただ、おそろしい、かなしいことが、たくさんおこっただけではありませんか。戦争は人間をほろぼすことです。世の中のよいものをこわすことです。だから、こんどの戦争をしかけた国には、大きな責任があるといわなければなりません。このまえの世界戦争のあとでも、もう戦争は二度とやるまいと、多くの国々ではいろいろ考えましたが、またこんな大戦争をおこしてしまったのは、まことに残念なことではありませんか。
 そこでこんどの憲法では、日本の国が、けっして二度と戦争をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戦力の放棄といいます。「放棄」とは、「すててしまう」ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの国よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。
 もう一つは、よその国と争いごとがおこったとき、けっして戦争によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとそうとしないということをきめたのです。おだやかにそうだんをして、きまりをつけようというのです。なぜならば、いくさをしかけることは、けっきょく、じぶんの国をほろぼすようなはめになるからです。また、戦争とまでゆかずとも、国の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことにきめたのです。これを戦争の放棄というのです。そうしてよその国となかよくして、世界中の国が、よい友だちになってくれるようにすれば、日本の国は、さかえてゆけるのです。
 みなさん、あのおそろしい戦争が、二度と起こらないように、また戦争を二度とおこさないようにいたしましょう。

七 基本的人権  第三章 国民の権利及び義務

 くうしゅうでやけたところへ行ってごらんなさい。やけただれた土から、もう草が青々とはえています。みんな生きいきとしげっています。草でさえも、力強く生きてゆくのです。ましてやみなさんは人間です。生きてゆく力があるはずです。天からさずかったしぜんの力があるのです。この力によって、人間が世の中に生きてゆくことを、だれもさまたげてはなりません。しかし人間は、草木とちがって、ただ生きてゆくというだけではなく、人間らしい生活をしてゆかなければなりません。この人間らしい生活には必要なものが二つあります。それは「自由」ということと、「平等」ということです。
 人間がこの世に生きてゆくからには、じぶんのすきな所に住み、自分のすきな所に行き、じぶんの思うことをいい、じぶんのすきな教えにしたがってゆけることなどが必要です。これらのことが人間の自由であって、この自由は、けっしてうばわれてはなりません。また国の力でこの自由を取りあげ、やたらに刑罰を加えたりしてはなりません。そこで憲法は、この自由は、けっして侵すことのできないものであることをきめているのです。
またわれわれは、人間である以上はみな同じです。人間の上に、もっとえらい人間があるはずはなく、人間の下に、もっといやしい人間があるわけはありません。男が女よりもすぐれ、女が男よりもおとっているということもありません。みな同じ人間であるならば、この世に生きてゆくのに、差別を受ける理由はないのです。差別のないことを「平等」といいます。そこで憲法は、自由といっしょに、この平等ということをきめているのです。
 国の規則の上で、何かはっきりとできることがみとめられていることを、「権利」といいます。自由と平等とがはっきりみとめられ、これを侵されないとするならば、この自由と平等はみなさんの権利です。これを「自由権」というのです。しかもこれは人間のいちばん大事な権利です。このいちばん大事な人間の権利のことを、「基本的人権」といいます。あたらしい憲法は、この基本的人権を、侵すことのできない永久に与えられた権利として記しているのです。これを基本的人権を「保障する」というのです。
 しかし基本的人権は、こゝにいった自由権だけではありません。まだほかに二つあります。自由権だけで、人間の国の中での生活がすむものではありません。たとえばみなさんは、勉強をしてよい国民にならなければなりません。国はみなさんに勉強をさせるようにしなければなりません。そこでみなさんは、教育を受ける権利を憲法で与えられているのです。この場合はみなさんのほうから、国にたいして、教育をしてもらうことを請求できるのです。これも大事な基本的な人権ですが、これを「請求権」というのです。争いごとがおこったとき、国の裁判所で、公平にさばいてもらうのも、裁判を請求する権利といって、基本的人権ですが、これも請求権であります。
 それからまた、国民が、国を治めることにいろいろ関係できるのも、大事な基本的人権ですが、これを「参政権」といいます。国会の議員や知事や市町村長などを選挙したり、じぶんがそういうものになったり、国や地方の大事なことについて投票したりすることは、みな参政権です。
 みなさん、いままで申しました基本的人権は大事なことですから、もういちど復習いたしましょう。みなさんは、憲法で基本的人権というりっぱな強い権利を与えられました。この権利は三つに分かれます。第一は自由権です。第二は請求権です。第三は参政権です。
 こんなりっぱな権利を与えられましたからには、みなさんは、じぶんでしっかりとこれを守って、失わないようにしてゆかなければなりません。しかしまた、むやみにこれをふりまわして、ほかの人に迷惑をかけてはいけません。ほかの人も、みなさんと同じ権利をもっていることとを、わすれてはなりません。国ぜんたいの幸福になるよう、この大事な基本的人権を守ってゆく責任があると、憲法に書いてあります。

八 国会  第四章 国会

 民主主義は、国民が、みんなでみんなのために国を治めてゆくことです。しかし国民の数はたいへん多いのですから、だれかが、国民ぜんたいに代わって国の仕事をするよりほかはありません。この国民に代わるものが「国会」です。まえにも申しましたように、国民は国を治めてゆく力、すなわち主権をもっているのです。この主権をもっている国民に代わるものが国会ですから、国会は国でいちばん高い位にあるもので、これを「最高機関」といいます。「機関」というのは、ちょうど人間に手足があるように、国の仕事をいろいろ分けてする役目のあるものという意味です。国には、いろいろなはたらきをする機関があります、あとでのべる内閣も、裁判所も、みな国の機関です。しかし国会は、その中でいちばん高い位にあるのです。それは国民ぜんたいを代表しているからです。
 国の仕事はたいへん多いのですが、これを分けてみると、だいたい三つに分かれるのです。その第一は、国のいろいろの規則をこしらえる仕事で、これを「立法」というのです。第二は、争いごとをさばいたり、罪があるかないかをきめる仕事で、これを「司法」というのです。ふつうに裁判といっているのはこれです。第三は、この「立法」と「司法」とをのぞいたいろいろの仕事で、これをひとまとめにして「行政」といいます。国会は、この三つのうち、どれをするかといえば、立法をうけもっている機関であります。司法は、裁判所がうけもっています。行政は、内閣とその下にある、たくさんの役所がうけもっています。
 国会は、立法という仕事をうけもっていますから、国の規則はみな国会がこしらえるのです。国会のこしらえる国の規則を「法律」といいます。みなさんは、法律ということばをよくきくことがあるでしょう。しかし、国会で法律をこしらえるのには、いろいろと手つづきがいりますから、あまりこまごました規則までこしらえることはできません。そこで憲法は、ある場合には、国会でないほかの機関、たとえば内閣が、国の規則をこしらえることをゆるしています。これを「命令」といいます。
 しかし、国の規則は、なるべく国会でこしらえるのがよいのです。なぜならば、国会は、国民がえらんだ議員のあつまりで、国民の意見がいちばんよくわかっているからです。。そこで、あたらしい憲法は、国の規則は、ただ国会だけがこしらえるということにしました。これを、国会は(唯一の立法機関である)というのです。「唯一」とは、ただ一つで、ほかにはないということです。立法機関とは、国の規則をこしらえる役目のある機関ということです。そうして、国会以外のほかの機関が、国の規則をこしらえてもよい場合は、憲法で、一つ一つきめているのです。また、国会のこしらえた国の規則、すなわち法律の中で、これこれのことは命令できめてもよろしいとゆるすこともあります。国民のえらんだ代表者が、国会で国民を治める規則をこしらえる、これが民主主義のたてまえであります。
 しかし国会には、国の規則をこしらえることのほかに、もう一つ大事な役目があります。それは、内閣や、その下にある、国のいろいろな役所の仕事のやりかたを、監督することです。これらの役所の仕事は、まえに申しました「行政」というはたらきですから、国会は、行政を監督して、まちがいのないようにする役目をしているのです。これで、国民の代表者が国の仕事を国の仕事を見はっていることになるのです。これも民主主義の国の治めかたであります。
 日本の国会は、「衆議院」と「参議院」との二つからできています。その一つ一つを「議院」といいます。このように、国会が二つの議院からできているものを「二院制度」というのです。国によっては、一つの議院しかないのもあり、これを「一院制度」というのD4えす。しかし、多くの国の国会は、二つの議院からできています。国の仕事はこの二つの議院がいっしょにきめるのです。
 なぜ二つの議院がいるのでしょう。みなさんは、野球や、そのほかのスポーツでいう、「バック.アップ」ということをごぞんじですか。一人の選手が球を取りあつかっているとき、もう一人の選手が、うしろにまわって、まちがいのないように守ることを、「バック.アップ」といいます。国会は、国の大事な仕事をするのですから、衆議院だけでは、まちがいが起こるといけないから、参議院が「バック.アップ」するはたらきをするのです。ただし、スポーツのほうでは、選手がおたがいに「バック.アップ」しますけれども、国会では、おもなはたらきをするのは衆議院であって、参議院は、ただ衆議院を「バック.アップ」するだけのはたらきをするのです。したがって、衆議院のほうが、参議院よりも、強い力が与えられているのです。この強い力をもった衆議院を「第一院」といい、参議院を「第二院」といいます。なぜ衆議院のほうに強い力があるのでしょう。そのわけは次のとおりです。
 衆議院の選挙は、四年ごとに行われます。衆議院の議員は、四年つとめるわけです。しかし、衆議院の考えが国民の考えを正しくあらわしていないと内閣が考えたときなどには、内閣は、国民の意見を知るために、いつでも天皇陛下に申しあげて、衆議院の選挙のやりなおしをしていただくことができます。これを衆議院の「解散」というのです。そうして、この解散のあとの選挙で、国民がどういう人をじぶんの代表にえらぶかということによって、国民のあたらしい意見が、あたらしい衆議院にあらわれてくるのです。
 参議院のほうは、議員が六年間つとめることになっており、三年ごとに半分ずつ選挙をして交代しますけれども、衆議院のように解散ということがありません。そうしてみると、衆議院のほうが、参議院よりも、その時、その時の国民の意見を、よくうつしているといわなければなりません。そこで衆議院のほうに参議院よりも強い力が与えられているのです。どういうふうに衆議院の方が強い力をもっているかということは、憲法できめられていますが、ひと口でいうと、衆議院と参議院との意見がちがったときには、衆議院のほうの意見がとおるようになっているということです。
 しかし衆議院も参議院も、ともに国民ぜんたいの代表者ですから、その議員は、みな国民が国民の中からえらぶのです。衆議院のほうは、議員が四百六十六人、参議院のほうは二百五十人あります。この議員をえらぶために、国を「選挙区」というものに分けて、この選挙区に、人口にしたがって議員の数をわりあてます。したがって選挙は、この選挙区ごとにわりあてられた数だけの議員をえらんで出すことになります。
 議員を選挙するには、選挙の日に投票所へ行き、投票用紙を受け取り、じぶんのよいと思う人の名前を書きます。それから、その紙を折り、鍵のかかった投票箱へ入れるのです。この投票はひじょうに大事な権利です。選挙する人は、みなじぶんの考えでだれに投票するかをきめなければなりません。けっして、品物や利益になる約束で説き伏せられてはなりません。この投票は、秘密投票といって、だれをえらんだかをいう義務もなく、ある人をえらんだ理由を問われても答える必要はありません。
 さて日本国民は、二十歳以上の人は、だれでも国会議員や知事市長などを選挙することができます。これを「選挙権」というのです。わが国では、ながいあいだ、男だけがこの選挙権をもっていました。また、財産をもっていて税金をおさめる人だけが、選挙権をもっていたこともありました。いまは、民主主義のやりかたで国を治めてゆくのですから、二十歳以上の人は、男も女もみんな選挙権をもっています。このように、国民がみな選挙権をもつことを「普通選挙」といいます。こんどの憲法は、この普通選挙を、国民の大事な基本的人権としてみとめているのです。しかし、いくら普通選挙といっても、こどもや気がくるった人まで選挙権をもつというわけではありませんが、とにかく男女人種の区別もなく、宗教や財産の上の区別もなく、みんながひとしく選挙権をもっているのです。
 また日本国民は、だれでも国会の議員になることができます。男も女もみな議員になれるのです。これを「被選挙権」といいます。しかし、年齢が、選挙権のときと少しちがいます。衆議院議員になるには、二十五歳以上、参議院義員になるには、三十歳以上でなければなりません。この被選挙権の場合も、選挙権と同じように、だれが考えてもいけないと思われる者には、被選挙権がありません。国会議員になろうとする人は、じぶんでとゞけて、「候補者」というものになるのです。また、じぶんがよいと思うほかの人を、「候補者」としてとゞけでることもあります。これを、候補者を「推薦する」といいます。
 この候補者をとゞけでるのは、選挙の日のまえにしめきってしまいます。投票をする人は、この候補者の中から、じぶんのよいと思う人をえらばなければなりません。ほかの人の名前を書いてはいけません。そうして、投票の数の多い候補者から、議員になれるのです。それを「当選する」といいます。
 みなさん、民主主義は、国民ぜんたいで国を治めてゆくことです。そうして国会は、国民ぜんたいの代表者です。それで、国会議員を選挙することは、国民の大事な権利で、また大事なつとめです。国民はぜひ選挙にでてゆかなければなりません。選挙にゆかないのは、この大事な権利をすててしまうことであり、また大事なつとめをおこたることです。選挙にゆかないことを、ふつう「棄権」といいます。これは、権利をすてるという意味です。国民は棄権してはなりません。みなさんも、いまにこの権利をもつことになりますから、選挙のことは、とくにく わしく書いておいたのです。
国会は、このようにして、国民がえらんだ議員があつまって、国のことをきめるところですが、ほかの役所とちがって、国会で、議員が、国の仕事をしているありさまを、国民が知ることができるのです。国民はいつでも、国会へ行って、これを見たりきいたりすることができるのです。また、新聞やラジオにも国会のことがでます。
つまり、国会での仕事は、国民の目の前で行われるのです。憲法は、国会はいつでも、国民に知れるようにして、仕事をしなければならないときめているのです。これはたいへん大事なことです。もしまれな場合ですが、秘密に会議を開こうとするときは、むずかしい手つづきがいります。
 これで、どういうふうに国が治められてゆくのか、どんなことが国でおこっているのか、国民のえらんだ議員が、どんな意見を国会でのべているかというようなことが、みんな国民にわかるのです。
国の仕事の正しい明るいやりかたは、こゝからうまれてくるのです。国会がなくなれば、国の中がくらくなるのです。民主主義は明るいやりかたです。国会は、民主主義にはなくてはならないものです。
 日本の国会は、年中開かれているものではありません。しかし、毎年一回はかならず開くことになっています。これを「常会」といいます。常会は百五十日間ときまっています。これを国会の「会期」といいます。このほかに、必要のあるときは、臨時に国会を開きます。これを「臨時会」といいます。また、衆議院が解散されたときは、解散の日から四十日以内に、選挙を行い、その選挙の日から三十日以内に、あたらしい国会が開かれます。これを「特別会」といいます。臨時会と特別会の会期は、国会がじぶんできめます。また、国会の会期は、必要のあるときには延ばすことができます。それも国会がじぶんできめるのです。国会を開くには、国会議員をよび集めなければなりません。これを、国会を「召集する」といって、天皇陛下がなさるのです。召集された国会は、じぶんで開いて仕事をはじめ、会期がおわれば、じぶんで国会を閉じて、国会は一時休むことになります。
 みなさん、国会の議事堂をごぞんじですか。あの白いうつくしい建物に、日の光がさしているのをごらんなさい。あれは日本国民の力をあらわすところです。主権をもっている日本国民が国を治めてゆくところです。

九 政党

 「政党」というのは、国を治めてゆくことについて、同じ意見をもっている人があつまってこしらえた団体のことです。みなさんは、社会党、民主党、自由党、国民協同党、共産党などという名前を、きいているでしょう。これらはみな政党です。政党は、国会の議員だけでこしらえているものではありません。政党からでている議員は、政党をこしらえている人の一部だけです。ですから、一つの政党があるということは、国の中に、それと同じ 意見をもった人が、そうとうおゝぜいいるということになるのです。
 政党には、国を治めてゆくについてのきまった意見があって、これを国民に知らせています。国民の意見は、人によってずいぶんちがいますが、大きく分けてみると、この政党の意見のどれかになるのです。つまり政党は、国民ぜんたいが、国を治めてゆくについてもっている意見を、大きく色分けしたものといってもよいのです。民主主義で国を治めてゆくには、国民ぜんたいが、みんな意見をはなしあって、きめてゆかなければなりません。政党がおたがいに国のことを議論しあうのはこのためです。
 日本には、この政党というものについて、まちがった考えがありました。それは、政党というものは、なんだか、国の中で、じぶんの意見をいいはっているいけないものだというような見方です。これはたいへんなまちがいです。民主主義のやりかたは、国の仕事について、国民が、おゝいに意見をはなしあってきめなければならないのですから、政党が争うのは、けっしてけんかではありません。民主主義でやれば、かならず政党というものができるのです。また、政党がいるのです。政党はいくつあってもよいのです。政党の数だけ、国民の意見が、大きく分かれてると思えばよいのです。ドイツやイタリアでは、政党をむりに一つにまとめてしまい、また日本でも、政党をやめてしまったことがありました。その結果はどうなりましたか。国民の意見が自由にきかれなくなって、個人の権利がふみにじられ、とうとうおそろしい戦争をはじめるようになったではありませんか。
 国会の選挙のあるごとに、政党は、じぶんの団体から議員の候補者を出し、またじぶんの意見を国民に知らせて、国会でなるべくたくさんの議員をえようとします。衆議院は、参議院よりも大きな力をもっていますから、衆議院でいちばん多く議員を、じぶんの政党から出すことが必要です。それで衆議院の選挙は、政党にとっていちばん大事なことです。国民は、この政党の意見をよくしらべてじぶんのよいと思う政党の候補者に投票す れば、じぶんの意見が、政党をとおして国会にとどくことになります。
 どの政党にもはいっていないひとが、候補者になっていることもあります。国民は、このような候補者に投票することも、もちろん自由です。しかし政党には、きまった意見があり、それは国民に知らせてありますから、政党の候補者に投票しておけば、その人が国会に出たときに、どういう意見をのべ、どういう風にはたらくかということが、はっきりときまっています。もし政党の候補者でない人に投票したときは、その人が国会に出たとき、どういうふうにはたらいてくれるかが、はっきり分からないふべんがあるのです。このようにして、選挙ごとに、衆議院に多くの議員をとった政党の意見で、国の仕事をやってゆくことになります。これは、いいかえれば、国民ぜんたいの中で、多いほうの意見で、国を治めてゆくことでもあります。
 みなさん、国民は、政党のことをよく知らなければなりません。じぶんのすきな政党にはいり、またじぶんたちですきな政党をつくるのは、国民の自由で、憲法は、これを「基本的人権」としてみとめています。だれもこれをさまたげることはできません。

十 内閣  第五章 内閣

 「内閣」は、国の行政をうけもっている機関であります。行政ということは、まえに申しましたように、「立法」すなわち国の規則をこしらえることと、「司法」すなわち裁判をすることをのぞいたあとの、国の仕事をまとめていうのです。国会は、国民の代表になって、国を治めてゆく機関ですが、たくさんの議員でできているし、また一年中ひらいているわけにもゆきませんから、日常の仕事やこまごました仕事は、別に役所をこしらえて、ここでとりあつかってゆきます。その役所のいちばん上にあるのが内閣です。
 内閣は、内閣総理大臣と国務大臣とからできています。「内閣総理大臣」は内閣の長で、内閣せんたいをまとめてゆく、大事な役目をするのです。それで、内閣総理大臣にだれがなるかということは、たいへん大事なことですが、こんどの憲法は、内閣総理大臣は、国会の議員の中から、国会がきめて、天皇陛下に申しあげ、天皇陛下がこれをお命じになることになっています。国会できめるとき、衆議院と参議院の意見が分かれたときは、けっきょく衆議院の意見どおりにきめることになります。内閣総理大臣を国会できめるということは、衆議院でたくさんの議員をもっている政党の意見で、きまることになりますから、内閣総理大臣は、政党からでることになります。
 また、ほかの国務大臣は、内閣総理大臣が、自分でえらんで国務大臣にします。しかし、国務大臣の数の半分以上は、国会の議員からえらばなければなりません。国務大臣は国の行政をうけもつ役目がありますが、この国務大臣の中から、大蔵省、文部省、厚生省、通商産業省などの国の役所の長になって、その役所の仕事を分けてうけもつ人がきまります。これを「各省大臣」といいます。つまり国務大臣の中には、この各省大臣になる人と、ただ国の仕事ぜんたいをみてゆく国務大臣とがあるわけです。内閣総理大臣が政党からでる以上、国務大臣もじぶんと同じ政党の人からとることが、国の仕事をやってゆく上でべんりでありますから、国務大臣の大部分が、同じ政党からでることになります。
 また、一つの政党だけでは、国会に自分の意見をとおすことができないと思ったときは、意見のちがうほかの政党と組んで内閣をつくります。このときは、それらの政党から、みな国務大臣がでて、いっしょに、国の仕事をすることになります。また政党の人でなくとも、国の仕事に明るい人を、国務大臣に入れることもあります。しかし、民主主義のやりかたでは、けっきょく政党が内閣をつくることになり、政党から内閣総理大臣と国務大臣のおゝぜいがでることになるので、これを「政党内閣」というのです。
 内閣は、国の行政をうけもち、また、天皇陛下が国の仕事をなさるときには、これに意見を申しあげ、また、御同意を申します。そうしてじぶんのやったことについて、国民を代表する国会にたいして、責任を負うのです。これは、内閣総理大臣も、ほかの国務大臣も、みないっしょになって、責任を負うのです。ひとりひとりべつべつに責任を負うのではありません。これを「連帯して責任を負う」といいます。
 また国会のほうでも、内閣がわるいと思えば、いつでも「もう内閣を信用しない」ときめることができます。たゞこれは、衆議院だけができることで、参議院はできません。なぜならば「国民のその時々の意見がうつっているのは、衆議院であり、また、選挙のやり直しをして、内閣が、国民に、どっちがよいかをきめてもらうことができるのは、衆議院だけだからです。衆議院が内閣にたいして、「もう内閣を信用しない」ときめることを、「不信任決議」といいます。この不信任決議がきまったときは、内閣は天皇陛下に申しあげ、十日以内に衆議院を解散していただき、選挙のやり直しをして、国民にうったえてきめてもらうか、または辞職するかどちらかになります。また「内閣を信用する」ということ(これを「信任決議」といいます)が、衆議院で反対されて、だめになったときも同じことです。
 このようにこんどの憲法では、内閣は国会とむすびついて、国会の直接の力で動かされることになっており、国会の政党の勢力の変化で、かわってゆくのです。つまり内閣は、国会の支配の下にあることになりますから、これを「議院内閣制度」とよんでいます。民主主義と、政党内閣と、議院内閣とは、ふかい関係があるのです。

十一 司法  第六章 司法

 「司法」とは、争いごとをさばいたり、罪があるかないかをきめることです。「裁判」というのも同じはたらきをさすのです。だれでも、自分の生命、自由、財産などを守るために、公平な裁判をしてもらうことができます。この司法という国の仕事は、国民にとってたいへん大事なことで、何よりもまず、公平にさばいたり、きめたりすることがたいせつであります。そこで国には、「裁判所」というものがあって、この司法という仕事をうけもっているのです。
 裁判所は、その仕事をやってゆくについて、ただ憲法と国会のつくった法律とにしたがって、公平に裁判をしてゆくものであることを、憲法できめております。ほかからは、いっさい口出しをすることはできないのです。また、裁判をする役目をもっている人、すなわち「裁判官」は、みだりに役目を取りあげられないことになっているのです。これを「司法権の独立」といいます。また、裁判を公平にさせるために、裁判は、だれでも見たりきたりすることができるのです。これは、国会と同じように、裁判所の仕事が国民の目の前で行われるということです。これも憲法ではっきりときめてあります。
 こんどの憲法で、ひじょうにかわったことを一つ申しておきます。それは、裁判所は、国会でつくった法律が、憲法に合っているかどうかをしらべることができるようになったことです。もし法律が、憲法にきめてあることにちがっていると考えたときは、その法律にしたがわないことができるのです。だから裁判所は、たいへんおもい役目をすることになりました。
みなさん、私たち国民は、国会を、じぶんのかわりをするものと思って、しんらいするとともに、裁判所を、じぶんたちの権利や自由を守ってくれるみかたと思って、尊敬しなければなりません。

十二 財政  第七章 財政


 みなさんの家に、それぞれくらしの立てかたがあるように、国にもくらしの立てかたがあります。これが国の「財政」です。国を治めてゆくのに、どれほど費用がかゝるか、その費用をどうしてとゝのえるか、ととのえた費用をどういうふうにつかってゆくかというようなことはみな国の財政です。国の費用は、国民が出さなければなりませんし、また、国の財政がうまくゆくかゆかないかは、たいへん大事なことですから、国民ははっきりこれを知り、またよく監督してゆかなければなりません。
 そこで憲法では、国会が、国民に代わって、この監督の役目をすることにしています。この監督の方法はいろいろありますが、そのおもなものをいいますと内閣は、毎年いくらお金がはいって、それをどういうふうにつかうかという見つもりを、国会に出して、きめてもらわなければなりません。それを「予算」といいます。また、つかった費用は、あとで計算して、また国会に出して、しらべてもらわなければなりません。これを「決算」といいます。国民から税金をとるには、国会に出して、きめてもらわなければなりません。内閣は、国会と国民にたいして、少なくとも毎年一回、国の財政が、どうなっているかを、知らさなければなりません。このような方法で、国の財政が、国民と国会とで監督されてゆくのです。
 また「会計検査院」という役所があって、国の決算を検査しています。

十三 地方自治  第八章 地方自治

 戦争中は、なんでも「国のため」といって、国民のひとりひとりのことが、かるく考えられていました。しかし、国は国民のあつまりで、国民のひとりひとりがよくならなければ、国はよくなりません。それと同じように、日本の国は、たくさんの地方に分かれていますが、その地方が、それぞれさかえてゆかなければ、国はさかえてゆきません。そのためには、地方が、それぞれじぶんでじぶんのことを治めてゆくのが、いちばんよいのです。なぜならば、地方には、その地方のいろいろな事情があり、その地方に住んでいる人が、いちばんよくこれを知っているからです。じぶんでじぶんのことを自由にやってゆくことを「自治」といいます。それで国の地方ごとに、自治でやらせてゆくことを、「地方自治」というのです。
 今度の憲法では、この地方自治ということをおもくみて、これをはっきりきめています。地方ごとに一つの団体になって、じぶんでじぶんの仕事をやってゆくのです。東京都、北海道、府県、市町村など、みなこの団体です。これを「地方公共団体」といいます。
 もし国の仕事のやりかたが、民主主義なら、地方公共団体の仕事のやりかたも民主主義でなければなりません。地方公共団体は、国のひながたといってもよいでしょう。国に国会があるように、地方公共団体にも、その地方に住む人を代表する「議会」がなければなりません。また、地方公共団体の仕事をする知事や、その他のおもな役目の人も、地方公共団体の議会の議員も、みなその地方に住む人が、じぶんで選挙することになりました。
 このように地方自治が、はっきり憲法でみとめられましたので、ある一つの地方公共団体だけのことをきめた法律を、、国の国会でつくるには、その地方に住む人の意見をきくために、投票をして、その投票の半分以上の賛成がなければできないことになりました。
 みなさん、国を愛し国につくすように、じぶんの住んでいる地方を地方を愛し、自分の地方のためにつくしましょう。地方のさかえは国のさかえと思ってください。

十四 改正  第九章 改正

 「改正」とは、憲法をかえることです。憲法は、前にも申しましたように、国の規則の中でいちばん大事なものですから、これをかえる手つづきは、げんじゅうにしておかなければなりません。
 そこでこんどの憲法では、憲法を改正するときには、国会だけできめずに、国民が賛成か反対かを投票してきめることにしました。
 まず、国会の二つの議員で、全体の三分の二以上の賛成で、憲法をかえることをきめます。これを、憲法改正の「発議」というのです。それからこれを国民に示して、賛成か反対かを投票してもらいます。そうしてぜんぶの投票の半分以上が賛成したとき、はじめて憲法の改正を国民が承知したことになります。これを国民の「承認」といいます。国民の承認した改正は、天皇陛下が国民の名で、これを国に発表されます。これを改正の「公布」といいます。あたらしい憲法は、国民がつくったもので、国民のものですから、これをかえたときも、国民の名義で発表するのです。

十五 最高法規   第十章 最高法規

 このおはなしのいちばんはじめに申しましたように、「最高法規」とは、国で、いちばん高い位にある規則で、つまり憲法のことです。この最高法規としての憲法には、国の仕事のやりかたをきめた規則と、国民の基本的人権をきめた規則と、二つあることもおはなししました。この中で、国民の基本的人権は、これまでかるく考えられていましたので、憲法第九十七条は、おごそかなことばで、この基本的人権は、人間がながいあいだ力をつくしてえたものであり、これまでいろいろのことにであってきたえあげられたものであるから、これからもけっして侵すことのできない永久の権利であると記しております。
 憲法は、国の最高法規ですから、この憲法できめられてあることにあわないものは、法律でも、命令でも、なんでも、いっさい規則としての力がありません。これも憲法がはっきりきめています。
このように大事な憲法は、天皇陛下もこれをお守りになりますし、国務大臣も、国会の議員も、裁判官も、みなこれを守ってゆく義務があるのです。また、日本の国が、ほかの国ととりきめた約束(これを「条約」といいます)も、国と国とが交際してゆくについてできた規則(これを「国際法規」といいます)も、日本の国は、まごころから守ってゆくということを、憲法できめました。
 みなさん、あたらしい憲法は、日本国民がつくった、日本国民の憲法です。これからさき、この憲法を守って、日本に国がさかえるようにしてゆこうではありませんか

●あとがき

 この「あたらしい憲法のはなし」は、日本国憲法が公布されて十カ月後の一九四七年(昭和二二年)八月、文部省によって発行され、全国の中学生が一年生の教科書として学んだものです。
 一九四六年十一月三日に発布され、四七年五月三日に施行された日本国憲法は、長かった戦争のもとで、生命と財産、青春と自由のはかりしれない犠牲のうえに、ファシズムをうちたおし、平和・民主・自由を要求する国内外の世論にささえられてようやくかちとられました。
 同時に、当時日本を占領していたアメリカは、憲法の内容をみずからの対日支配政策のワク内におしこめようと画策しました。そのために日本国憲法は、国民主権、恒久平和、基本的人権、議会制民主主義、地方自治の諸原則にもとづく平和的民主的条項がもりこまれた積極的内容をもつものとなる一方、象徴天皇制など、平和的民主的条項と相反する内容をも合わせもつものとなりました。
 当時の文都省が数科書として発行したこの「あたらしい憲法のはなし」も当然、憲法自身のもつ隈界を反映し、国民主権と矛眉する象徴天皇制をそのまま肯定的に叙述するなど、批判的に検討すぺき側面をもっています。しかし、全体としては、当時の平和と民主主義を求める国内外の世論の高揚を反映して憲法の平和的民主的条項の精神をいきいきとわかりやすく解説するものとなっているのが特徴です。
 それは、当時の中学生だけでなく、「教え子をわが子をふたたび戦場に送るな」と誓いあい、新しい平和と民主主義教育への情熱に燃えていた教師、父母に明るい希望をよびおこしました。
 しかし、この教科書は二、三年使われただけでした。日本が一九五〇年(昭和二五年)にはじまった朝鮮戦争の基地にされ、日米安保条約が結ばれ、警察予備隊が自衛隊にかわってゆくという時代の流れのなかで、教室から姿を消していってしまったのです。
 憲法施行後四十数年をむかえたいま、日本の軍事費は世界第三位といわれるまでに膨脹し、憲法違反の自衛隊と米軍との日本の核戦場化をも想定した日米合同演習が激化しています。主権在民の原則と歴史の進歩に反する天皇の美化と元首化のためのキャンペーンも大々的に展開されています。加えて国民の目、耳、口をふさぐファショ法の国家機密法や、軍事優先の国内体制づくりをめざす有事立法の制定、教育の国家統制と反動化をめざす策動など、民主主義と国民の権利への攻撃も強まっています。
 憲法改悪に反対し、憲法の平和的民主的条項をまもり、その完全実施を求める運動はいよいよ重要です。
 わたしたちは、この「あたらしい憲法のはなし」の普及の波が、憲法の平和的民主的条項をよりどころにいのちとくらしを守っていく国民各層の努力とむすびついて、この教科書の限界をこえた「平和のための親と子と教師の対話による教科書」が創造されることを願っています。
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